西礀子曇
西礀子曇(せいかん すどん)は、南宋出身で臨済宗楊岐派の僧。日本に禅を伝えた二十四流と称する禅傑の一人である。俗姓は黄。
西礀子曇 | |
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淳祐9年 - 嘉元4年10月28日 (1249年 - 1306年12月12日) | |
諡号 | 大通禅師 |
生地 | 台州仙居県 |
没地 | 鎌倉正観寺 |
宗派 | 臨済宗楊岐派 |
寺院 | 円覚寺、建長寺 |
師 | 石帆惟衍 |
弟子 | 明岩正因、安東円恵 |
生涯
編集淳祐9年(1249年)、台州仙居県にて生まれる。咸淳元年(1265年)、広度寺で出家した後、承天寺の石楼明や浄慈寺の石帆惟衍に参禅する。咸淳6年(1270年)に石帆惟衍について天童寺に移るが、翌咸淳7年(文永8年/1271年)、北条時宗により日本に招かれ、蘭渓道隆や東福円爾とともに禅の師となる。弘安元年(1278年)、帰国して天童寺の環渓惟一の下で蔵主を務め、紫岩寺の住持となり、また径山寺の雲峰妙高に参じた。
至元27年(1290年)には潭州天柱寺の住持となった。大徳3年/正安元年(1299年)に元の成宗の命により一山一寧とともに再度来日する。日本では円覚寺6世、建長寺11世を務めた。また、後宇多上皇に法を説き、北条貞時は弟子の礼をとった。嘉元4年10月28日(1306年12月12日)、正観寺で示寂。諡号は大通禅師。弟子に明岩正因・安東円恵がおり、その法系を大通派あるいは西礀派と称する。
その遺風を伝えるものとして勅諡大通禅師行実、大通禅師語録がある。