西村貞陽
西村 貞陽(にしむら さだあき[1]、1846年1月3日(弘化2年12月6日)- 1886年(明治19年)9月6日[2])は、幕末の佐賀藩士、明治期の開拓使官僚・政治家。元老院議官。旧名・新助[3]。
経歴
編集明治2年8月8日(1869年9月13日)開拓使に出仕し開拓少主典となる[2]。同年8月24日(9月29日)権大主典に昇進[2]。同月、開拓御用米一万石の盛岡藩から函館港への輸送に関して、諸手配と盛岡から諸職人を引率のため函館に出張し、同年10月函館詰・金穀掛を命ぜられる[2][3]。同年12月20日(1870年1月21日)大主典に昇進[2]。明治3年10月17日(1870年11月10日)開拓権監事となり、同年閏10月20日(12月12日)札幌詰を命ぜられ、札幌本府建設の方針を示した[2][3]。以後、開拓監事、開拓権判官、開拓少判官を歴任[2]。明治4年(1871年)から明治5年(1872年)にかけて岩村通俊判官と本府建設に従事[3]。1873年より黒田清隆次官(のち長官)を補佐し、開拓中判官、開拓大書記官を歴任[2][3]。この間、1875年3月から10月にかけて清国に商況視察などで出張した[1][2][3]。1881年11月8日、依願免となる。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の西村貞陽書翰などが閲覧できる。
- 北海道大学北方関係資料総合目録 - 北方資料室所蔵の肖像写真などが閲覧できる。
- 東京の中の佐賀 賢崇寺 12 西村貞陽 - 佐賀城本丸歴史館。