西山至之
西山 至之(にしやま のりゆき、生没年不詳)は、江戸時代初期の肥後熊本藩士。室町幕府13代将軍足利義輝の遺児[1]といわれる尾池義辰の子。初め尾池の苗字を名乗っており、諱は尾池姓時代は唯高、西山へ改姓後に至之。通称は尾池姓時代は伝右衛門、後に左京。父を招いた細川忠利から細川綱利の代まで仕える。石高は1000石。家格は比着座同列定席。子は西山重辰、西山之氏。
経歴
編集初め尾池伝右衛門と称する。「全讃史」では父は讃岐高松藩主家の生駒家より、石高2000石を授けられ、そのうちの1000石を相続し、残り1000石は弟の尾池藤左衛門が相続したという。
寛永14年(1637年)の生駒騒動や島原の乱の頃に本国の熊本城下に召し寄せられて、高松藩時代同様に知行1000石、無役、客分に遇されて、左右着座の上座にあたる比着座同列定席の家格に編入される。なお、弟の藤左衛門も1000石を知行した。
寛永21年(1644年)改めの「真源院様御代御侍名附」に「一千石 尾池伝右衛門」とある。また、慶安元年(1648年)の「真源院様御代侍免撫帳」では知行1000石のうち、708石4斗は「ましき」に、291石6斗は「南郷」にあったとしている。「寛文四年六月(1664年) 御侍帳」では長岡監物組に「一千石 尾池伝右衛門」とある。
子孫は明治時代まで、熊本藩士西山家として続く。末裔に西山大衛がいる。
脚注
編集参考文献
編集- 「三百藩家臣人名事典 第七巻」新人物往来社
- 松本寿三郎「肥後細川家侍帳 (一)」細川藩政史研究会
- 大田亮「姓氏家系大辞典 1」角川書店