西カリマンタン州
西カリマンタン州(にしカリマンタンしゅう、インドネシア語: Kalimantan Barat)は、インドネシアの州。カリマンタン島に5つある同国の州の一つである。州都ポンティアナックは赤道直下にある。人口の約29%はポンティアナック市内に住んでいる。経済発展が遅れている地方のひとつである[3]。
州の標語: Akcaya (Tak Kunjung Binasa) 決して滅びない | |
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座標 | 北緯0度00分 東経110度30分 / 北緯0.000度 東経110.500度座標: 北緯0度00分 東経110度30分 / 北緯0.000度 東経110.500度 |
州都 | ポンティアナック |
知事 | スターミディ |
面積 | 147,307.00[1] km² |
人口 | 5,414,390人(2020年国勢調査[2]) |
人口密度 | 36.6人/km² |
民族 | マレー人、ダヤク人、華人、ジャワ人、マドゥラ族、ブギス人 |
宗教 |
イスラム教(60,07%)
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言語 | インドネシア語、マレー語、ダヤク語、中国語 |
時間帯 | WIB (UTC+7) |
ISO | ID-KB |
公式サイト | www.kalbar.go.id/ |
地理
編集行政
編集同州の下には2市(kota) そして12県(kabupaten)が置かれている。
県
編集- ベンカヤン県 - Kab. Bengkayang
- 源流カプアス県 - Kab. Kapuas Hulu
- 北カヨン県 - Kab. Kayong Utara
- ケタパン県 - Kab. Ketapang
- クブラヤ県 - Kab. Kubu Raya
- ランダック県 - Kab. Landak
- メラウィ県 - Kab. Melawi
- メンパワ県 - Kab. Mempawah
- サンバス県 - Kab. Sambas
- サンガウ県 - Kab. Sanggau
- セカダウ県 - Kab. Sekadau
- シンタン県 - Kab. Sintang
市
編集歴史
編集主にダヤク人が居住する地域だったが17世紀にマレー人が移住[4]。先住民であるダヤク人が国家を形成することはなく、16世紀にはマジャパヒト王国の王子が西カリマンタン最古の王朝であるスカダナを建国[5]。18世紀には西ボルネオの海岸沿いや内陸部の河川上にマレー人やブギス人が支配者層である港市国家が多数存在し、1771年には海賊活動によって勢力を拡大したアブドゥルラフマーンがカプアス河口にポンティアナック王国を建国、また華人の商人や労働者の流入も増大し、1777年(もしくは1840年)にはカプアス河の内陸に客家系華僑の鉱山(金鉱)労働者による共和国「蘭芳公司」も成立した[6][7]。
1800年よりオランダ領東インドとなる。植民地時代からマレー人によるダヤク人の抑圧など、多民族地域ゆえの民族紛争が絶えず続く。1942年から1945年までは日本の統治下にあり、1943年にはポンティアナック事件が発生。
1960年代半ばのスカルノ政権時代には、西カリマンタンはインドネシアとマレーシアとの間の武力衝突の舞台となった。
スハルトが1965年にスカルノを失脚させた後は、武力衝突はすみやかに終息したが、この武力衝突の間に非合法組織インドネシア共産党 (PKI) の後ろ盾で武装勢力が組織され、スハルト軍事政権との間でさらに10年間に及ぶ内戦が続いた。1968年から反マドゥラ人暴動がたびたび起こり、1990年代には大量のマドゥラ人難民を生んだ[8]。スハルト時代には、カリマンタンでは豊富な森林資源とプランテーションをもとにした森林開発が推進された[9]。
1998年に中央集権的なスハルト体制が崩壊すると地方分権的民主体制へと大きく転換し、西カリマンタンでは森林事業の下請けを地元の華人業者が担っていたことから、各地に群雄割拠した中小規模の経済・社会的有力者たちと親交のある県役人や県政治家が地方首長ポストをめぐって鎬を削るようになった[9]。
2001年に1市6県から2市8県になる。
2019年、カリマンタン島最大規模の港湾となるキジン港が開港する予定[10]。
脚注
編集出典
編集- ^ “Statistical Yearbook of Indonesia 2022”. 中央統計庁. p. 10 (2022年2月25日). 2022年8月28日閲覧。
- ^ “Indonesia: Provinces & Cities”. Citypopulation.de (2020年6月12日). 2022年8月28日閲覧。
- ^ 西カリマンタン州公立病院医療サービス改善計画 JICA、ODA見える化サイト、2005年3月
- ^ Wikipedia英語版West Kalimantan
- ^ 南西カリマンタンの海洋移民と国家 ―1760-1850年太田淳、21世紀海域学の創成 報告書、立教大学アジア地域研究所
- ^ 飯島典子『近代「客家(Hakka)社会」の形成 : 清代中期から民国初期における広東客家社会の発展過程』 一橋大学〈博士 (社会学) 甲第230号〉、2004年。 NAID 500000280367。
- ^ 港市国家ポンティアナックの成立と近世後期東南アジア海域世界冨田暁、東南アジア学会第79回研究大会、2008年6月7日
- ^ 木村宏恒「民族紛争と国民国家建設 - インドネシアの地方分権と西カリマンタン州の不良開発を例に -」『熊本学園大学経済論集(清野健先生退官記念号)』第9巻第3-4号、熊本学園大学、2003年、163-187頁、ISSN 1341-0202、NAID 11000056264。
- ^ a b 森下明子『スハルト体制崩壊後のインドネシア地方政治 : 西・中部・東カリマンタンの利権を握るのはどういった人たちか』 京都大学〈博士 (地域研究) 甲第12429号〉、2006年。 NAID 500000345118。CRID 1110845735135292800 。
- ^ “カリマンタン島最大規模の港湾、来年開港”. NNA.ASIA (2018年4月13日). 2018年4月14日閲覧。
参考文献
編集- Jamie S. Davidson; Douglas, Kammen (2002). “Indonesia's Unknown War and the Lineages of Violence in West Kalimantan”. Indonesia (JSTOR) 73: 53. doi:10.2307/3351469. ISSN 0019-7289 .
外部リンク
編集- WWF Heart of Borneo conservation initiative - ボルネオ島中心部の情報 - 220,000 km²に及ぶ高原の熱帯雨林に住むオランウータン、サイ、コビトゾウなどが絶滅の危機に瀕している。
- 松村智雄「インドネシア西カリマンタンにおける1967年華人追放事件の経緯」『アジア地域文化研究』第8巻、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会、2012年、92-111頁、doi:10.15083/00037348、hdl:2261/52465、ISSN 18800602。
- 生田まちよ, 竹下夏美, 牛之濱久代, 下敷領須美子「インドネシア共和国西カリマンタン州における妊産婦と乳幼児の食習慣に関する調査」『熊本大学医学部保健学科紀要』第7巻、熊本大学、2011年、11-23頁、ISSN 1880-7151。