褚玉璞
中華民国の軍人
褚 玉璞(ちょ ぎょくはく)は中華民国の軍人。北京政府、奉天派に属し、特に山東省を拠点とした張宗昌の配下として活動した。字は薀山。
褚玉璞 | |
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プロフィール | |
出生: | 1887年(清光緒13年) |
死去: |
1931年(民国20年) 中華民国山東省膠東 |
出身地: | 清山東省兗州府汶上県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 褚玉璞 |
簡体字: | 褚玉璞 |
拼音: | Chǔ Yùpú |
ラテン字: | Ch'u Yü-p'u |
和名表記: | ちょ ぎょくはく |
発音転記: | チュー ユープー |
事跡
編集青年期はは緑林の徒として活動した。最初は安徽都督柏文尉の軍に加えられている。しかし、1913年(民国2年)に張宗昌配下に転じ、褚玉璞は営長となる。1917年(民国6年)、張が馮国璋から第6混成旅旅長に任命されると、褚はやはり営長として動員された。同年に張が暫編陸軍第1師師長となると、褚は団長に昇進している。
1921年(民国10年)に張宗昌が江西省で軍を喪失しても、褚玉璞はこれに従い、ともに奉天派に加わった。以後、第3混成旅第50団団長、第28混成旅旅長を歴任した。1926年(民国15年)、褚は直魯聯軍第1軍副軍長兼前敵総指揮に任命され、馮玉祥の国民軍を撃破している。この時の功績により、直隷軍務督弁兼直隷省長に任命された。しかし、1928年(民国17年)に奉天派が中国国民党の北伐軍に敗北すると、張と褚は下野した。
その後も、褚玉璞は張宗昌のために、山東省膠東一帯で活動し再起を図った。しかし1931年(民国20年)、かつての部下であった国民革命軍第21師師長兼山東省政府委員の劉珍年に膠東で捕縛され、生埋めの刑に処された。享年45。
参考文献
編集- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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