虢州
魏晋南北朝時代
編集隋代
編集隋初には、東義州は下部に1郡3県を管轄した。582年(開皇2年)に商州邑陽県及び陝州弘農県は東義州に移管された。583年(開皇3年)、東義州は虢州と改称された。隋が郡制を廃すると、虢州の属郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、虢州は弘農郡と改称され、下部に5県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||
---|---|---|---|---|---|
区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||
州 | 東義州 | 商州 | 陝州 | 郡 | 弘農郡 |
郡 | 義川郡 | 邑陽郡 | 弘農郡 | 県 | 盧氏県 長淵県 朱陽県 弘農県 |
県 | 盧氏県 長淵県 朱陽県 |
邑陽県 | 弘農県 |
唐代
編集618年(武徳元年)、唐により虢郡は虢州と改められ、鳳林郡は鼎州と改められた。634年(貞観8年)、鼎州は廃止され、虢州に編入された。742年(天宝元年)、虢州は弘農郡と改称された。758年(乾元元年)、弘農郡は虢州の称にもどされた。虢州は河南道に属し、弘農・閿郷・湖城・玉城・盧氏・朱陽の6県を管轄した[2]。
宋代以降
編集北宋のとき、虢州は永興軍路に属し、虢略・盧氏・朱陽・欒川の4県を管轄した[3]。
1127年(天会5年)、金が虢州を占領した[4]。金の虢州は京兆府路に属し、虢略・盧氏・朱陽の3県と靖遠・玉城・朱陽・社管・欒川の5鎮を管轄した[5]。