蘇我安麻呂
日本の飛鳥時代の貴族
蘇我 安麻呂(そが の やすまろ)は、飛鳥時代後期の貴族。名は安麻侶、安摩侶とも書かれる。大紫・蘇我連子の子。子に石川石足がいる。官位は小花下・少納言。
時代 | 飛鳥時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 安麻侶、安摩侶[1] |
官位 | 小花下・少納言 |
主君 | 天智天皇 |
氏族 | 蘇我氏 |
父母 | 父:蘇我連子 |
兄弟 |
安麻呂、石川虫名、男、男、石川宮麻呂、 石川難波麻呂、石川子老、蘇我娼子 [2] |
子 | 石川石足 |
経歴
編集天智天皇4年(671年)に天智天皇が病気によって重態となった際、大海人皇子(後の天武天皇)を病床に呼ぶための使者を務める。しかし、安麻呂は以前より大海人皇子と親しくしていたことから、「有意ひて言へ」(よく注意してお話なさいませ)と大海人皇子に忠告した。この安麻呂の一言により、大海人皇子は天智天皇からの譲位の申し出を辞退して出家し、吉野に脱出することができたという[3]。
他の蘇我氏一族である蘇我赤兄・蘇我果安らが大友皇子側に付いたのとは対照的な行動であり、天武天皇の命の恩人とも言える。また、乙巳の変や蘇我田口川堀、蘇我倉山田石川麻呂の死亡に見えるような、蘇我氏内部の対立を象徴するものであった[2]。この功労にもかかわらず、天武朝にて重用されるどころか、その後全く史料に安麻呂の名が見えず、没年も未詳である。なお、子・石川石足の死亡記事によると、安麻呂の官位は少納言小花下と見える[4]。小花下は天智天皇3年(664年)以前の冠位制度に基づいた名称であることから、壬申の乱後幾ばくも経たない頃、あるいは乱の最中に早世したと考えられる。