蘇孝慈
蘇 孝慈(そこうじ、538年 - 601年)は、中国の北周から隋にかけての軍人・政治家。名は慈。孝慈は字であり、字をもって通称される。本貫は扶風郡。
経歴
編集蘇武周の子として生まれた。北周の初年に中侍上士となった。567年、右侍上士となった。569年、都督となり、北斉への使者に立った。570年、大都督に進んだ。571年、再び北斉に向かい、帰還すると宣納上士となった。576年、武帝の下で北斉を討ち、功績により位は開府儀同三司に進んで、文安県公の爵位を受けた。まもなく臨水県公に改封され、工部上大夫に累進した。
581年、隋が建国されると、爵位は安平郡公に進み、太府卿に任ぜられた。大司農に転じた。582年、兵部尚書となり、太子右衛率を兼ねた。583年、陝州に常平倉が置かれると、輸京下に転じた。584年、知漕渠総副監事となり、渭水の浚渫工事を監督した。587年、太子右庶子を兼ね、まもなく太子左衛率に転じた。588年、判工部尚書となり、判刑部民部尚書事となった。592年、位は大将軍に進み、工部尚書に転じた。598年、淅州刺史として出された。太子楊勇は孝慈が去ったことが不満で、言動にあらわれた。601年、洪州総管に転じ、善政で知られた。桂林の山越が乱を起こすと、孝慈は交州道行軍総管となって、乱の平定にあたった。交州で死去した。
子に蘇会昌があった。また兄の蘇順の子の蘇沙羅が知られた。