藤波甚助
藤波 甚助(ふじなみ じんすけ、1850年6月11日(嘉永3年5月2日) - 1917年(大正6年)1月2日)は、明治時代の静岡県の政治家、教育者。名は博、字は子約、琢斎と号した。幼名は歌吉、後に市兵衛と改めた[1]。
静岡英語専門学校の設立者・静岡英和女学院 第5代校主・静岡メソジスト教会員。
晩年は、『静岡市史』の編纂主任を委嘱されて資料の収集に努めたが、完成せずに終わった。
経歴
編集- 1850年6月11日(嘉永3年5月2日) - 父・甚助の三子として駿河国有渡郡本通り三丁目12番地(現静岡市葵区本通り三丁目)に生まれた。家は太物商で屋号を松富屋といった。
- 1870年(明治3年)
- 1874年(明治7年)1月 - 長男 孝之誕生[2]。
- 1877年(明治10年) - 第三十五国立銀行(現:静岡銀行)が創立され、全行の重役となる[1]。
- 1880年(明治13年)3月 - 二男 憶之誕生[2]。
- 1881年(明治14年) - 英学の必要を痛感して、静岡安西1丁目南裏町21番地 文武館の館主松下之基に教えを受けた。この文武館では渋江保(静岡英語専門学校教員)が教授をしていたこともある。
- 1883年(明治16年) - 友人の村松一(静岡メソジスト教会員)とともに静岡英学塾を創立するも火災で焼失。
- 1884年(明治17年)7月 静岡市屋形町東本願寺別院の所の自邸内に静岡英学校(のちの静岡英語専門学校)を創立[3]。
- 1885年(明治18年)5月 - 長女 すま誕生[2]。
- 1886年(明治19年)4月 - 3級市会議員となる[1]。
- 1886年(明治19年)5月 - 市会議長代理者となる[1]。
- 1887年(明治20年)7月 - 静岡英学校校舎が火災のため類焼。静岡市本通り3丁目9-2に移る[4]。
- 1888年(明治21年)静岡英学校校舎を新築。
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)1月 二女 あか誕生[2]。
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)
- 1896年(明治29年)3月 - 静岡英語専門学校閉校。
- 1900年(明治33年)10月5日 - 静岡県政友会支部創立委員に嘱託[5]。
- 1901年(明治34年)5月29日 - 市参事会員を辞める[5]。
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)12月21日 - 『静岡市史』の編纂主任となる[5]。
- 1905年(明治38年)1月 - 二男 憶之戦死[2]。
- 1908年(明治41年)11月26日 - 静岡市政友会顧問となる[5]。
- 1912年(明治45年)3月31日 - 『静岡市史』の編纂主任を辞める[5]。
- 1917年(大正6年)1月2日 - 没。
- 1928年(昭和3年)11月8日 - 静岡市政並びに市史資料の収集に対する功によって、市から追彰される。
親族
編集- 父 甚助
- 妻 とみ
- 長男 孝之
- 二男 憶之
- 長女 すま
- 二女 あか
脚注
編集- ^ a b c d e f g h 静岡市役所企画部文書課 (1963年9月30日). 『藤波甚助日誌抄録』. 静岡市役所. p. 5
- ^ a b c d e 飯田 宏 (1967). 『静岡県英学史』. 講談社. p. 43
- ^ 静岡市史・総目次 年表 索引. 静岡市役所. (1982年4月1日). p. 694
- ^ 『明治前期静岡町割絵図集成』. 静岡郷土出版社. (1989年6月22日). p. 116
- ^ a b c d e f g 静岡市役所企画部文書課 (1963年9月30日). 『藤波甚助日誌抄録』. 静岡市役所. p. 6
- ^ a b c 静岡教会125年史. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). p. 46
- ^ a b 静岡英和女学院百年史. 静岡英和女学院. (1990年11月26日). p. 1043
- ^ 新聞に見る静岡県の一〇〇年. 静岡新聞社. (1999年11月27日). p. 33