藤川黎一
来歴
編集東宝の営業畑のサラリーマンを父に持つ関係から、映画館に無料で出入りし、大量の映画を観て育つ[1]。早稲田高等学校を成績不良により約1年で中退した後、当時赤坂にあった聖パウロ学園高等学校に入り直し、早稲田大学文学部日本文学科に進む[1]。在学中は西村朝日太郎に師事し、遺骨収集の学術調査でニューギニアへ赴く[1]。帰路、ジャカルタで朝日新聞社の駐在記者と大喧嘩になり、帰国後に朝日新聞社から早稲田大学へ抗議文を送られた[1]。藤川は、記者の非協力的な態度が喧嘩の原因であったと主張している[1]。
大学中退後、26~27歳の時に父を亡くし、当時の金で5000万~6000万円程度の遺産を得る[1]。1982年~1983年頃、自由社の就職試験を受け、その席上、石原萠記から「あなたは勤め人じゃない。ものを書く人だ」と言われたことから本木荘二郎の評伝の執筆を開始[1]。新聞の拡張員・集金人として働きつつ取材を重ね、1984年に『虹の橋 黒澤明と本木荘二郎』(田畑書店)を刊行[1]。