藤川勇造
日本の彫刻家
藤川 勇造(ふじかわ ゆうぞう、1883年(明治16年)10月31日 - 1935年(昭和10年)6月15日)は、大正時代から昭和初期に活躍した彫刻家である。妻は洋画家の藤川栄子。
経歴・人物
編集香川県高松市の江戸時代に活躍した玉楮象谷を大伯父に持つ漆芸の一家に生まれる。香川県立高松工芸高等学校漆工科(1899年(明治32年)に木彫科に転身)卒業後上京し、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学し彫刻を学んだ。卒業後の1909年(明治42年)に留学のためフランスへ渡り、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、彫刻を学ぶ。これによって1912年に当時同学校に勤めていたオーギュスト・ロダンの晩年の助手となった。
しかし、父親の病気により1916年(大正5年)に帰国し、3年後の1919年(大正8年)に二科会の彫刻部創設に携わり、同時に同会の会員となった。後に多くの自然主義的な概念を持った彫刻作品を制作し、菊池一雄、堀内正和等の著名な彫刻家を輩出した。1929年(昭和4年)には著名な彫刻を育てた番衆技塾を創設する等、一躍名を馳せた。
1935年(昭和10年)には帝国美術院の改革が進む中、官選という形で美術院の会員に選出される[1]。このことで二科会を脱会した。二科会は創立以来の労を認め名誉会員とした。 その直後に日本脳炎に罹患、帝国大学島園内科に入院したが、同年6月15日に死去した[2]。