藤堂 元孝(とうどう もとたか)は、伊勢国津藩藤堂采女家第7代。伊賀国上野城代。2代藩主藤堂高次の昆孫。

 
藤堂元孝
時代 江戸時代
生誕 天明5年(1785年
死没 文政4年8月26日1821年6月28日
改名 總治郎→元孝
別名 采女(通称)
墓所 伊賀市西蓮寺
主君 藤堂高嶷高猷
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏保田氏
父母 父:藤堂元長、母:鉉(藤堂良演の娘)
経(元晋室)、養子:元晋
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家系

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藤堂采女家は、藤堂高虎に仕え藤堂姓を与えられた藤堂元則に始まり、代々の当主が「采女」の通称を名乗る。本姓保田氏。家紋は追洲流、三文字。初代元則以降伊賀上野城代を世襲した。

略歴

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天明5年(1785年)采女家第6代藤堂元長の長男として生まれる。母は藤堂玄蕃良演の娘鉉。[1]

寛政6年(1794年)父元長が死去し家督相続したが、まだ幼いため分家当主の元享が藩に看抱を命じられ、代わって上野城代に就任した。[2]

文化4年(1807年)上野城代に就任。

文政4年(1821年)7月30日に持病が悪化し8月26日、死去。享年38。9月に采女家の願いにより藩主高猷の甥度五郎(元晋)が養子入りした。[2]

人物

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持病の療養先の京都から妻に宛てた手紙が現存している。[3]

出典

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  1. ^ 庁事類編
  2. ^ a b 久保
  3. ^ 上野城代の上京と病気療養

参考文献

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