藤原隆宗
正四位下、少将、近江守。子に応源(権律師)、隆助(法橋)-弁暁(東大寺別当、法印権大僧都)-源円(延暦寺、権少僧都)
藤原 隆宗(ふじわら の たかむね、寛徳2年(1045年) - 康和4年3月4日(1102年3月24日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家、参議・藤原良基の子。官位は正四位下・近江守。
経歴
編集白河朝初頭の延久6年(1074年)右近衛権少将に任ぜられると、翌承保2年(1075年)左近衛権少将に転じる。少将の傍らで、木工頭・民部大輔などを兼ねる。永保3年(1083年)ごろ従四位下に叙せられるが引き続き少将を務め、白河院政期初頭の寛治2年(1088年)正四位下に叙せられて少将を退くまで、15年近くに亘ってこれを務めた。
その後は木工頭を務めながら、河内守を兼ねる。嘉保元年(1095年)近江守として受領となり、康和4年(1102年)の任期満了まで務めた。同年3月4日に悪瘡により卒去。国司辞任後すぐの急死だったため、まだ公文の確認が終わっていなかったという。享年58。最終官位は前近江守正四位下。
官歴
編集- 時期不詳:従五位上[1]
- 延久6年(1074年) 正月28日?:右近衛権少将[1]
- 承保2年(1075年) 正月:兼美作介[1]。12月15日:左近衛権少将[2]
- 承暦2年(1078年) 正月16日:見正五位下[3]
- 永保元年(1081年) 8月8日:兼木工頭[4]
- 永保3年(1083年) 正月29日:見従四位下木工頭左近衛権少将兼讃岐介[5][1]
- 応徳2年(1085年) 正月22日:見従四位上左近衛権少将民部大輔木工頭[6]
- 寛治2年(1088年) 正月19日:正四位下(斎宮職事)[7]。7月6日:止少将?[2]
- 寛治5年(1091年) 8月8日:見兼河内守[8]
- 嘉保元年(1095年) 正月14日:見木工頭[9]。7月13日:近江守[9]
- 永長元年(1097年) 4月7日:近江守(重任)[9]
- 康和4年(1102年)春:辞近江守(秩満)[10]。3月4日:卒去[9]
系譜
編集『尊卑分脈』による。