藤原脩範
藤原 脩範(ふじわら の ながのり)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原南家貞嗣流、少納言・藤原通憲(信西)の五男。官位は正三位・参議。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康治2年(1143年) |
死没 | 不詳 |
改名 | 脩憲(初名)→脩範 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原南家貞嗣流 |
父母 |
父:信西(藤原通憲) 母:藤原朝子(藤原兼永の娘) |
兄弟 | 俊憲、貞憲、静賢、澄憲、覚憲、憲曜、成範、勝賢、是憲、明遍、脩範、光憲、寛敏、行憲、憲俊、寛兼、憲慶、阿波内侍?、藤原隆季室、藤原長方室、藤原親信室、少将有房室、藤原家房室、源為国室 |
妻 | 平範家の娘 |
子 | 範能、範雅、範信、円顕、平忠房室 |
経歴
編集保元元年(1156年)保元の乱後に六位蔵人に任ぜられ、まもなく従五位下に叙爵。乱後に父・信西が権力を握ったため、脩憲も急速に昇進し、保元2年(1157年)従五位上・左兵衛佐、保元3年(1158年)正五位下、保元4年(1159年)左近衛少将に叙任される。しかし、同年12月に発生した平治の乱に連座し、解官の上で隠岐国への流罪となった。
翌永暦元年(1160年)平安京に召し返されて本位に復し、左近衛少将に還任される。またこの時、名を脩憲から脩範に改めている。その後は後白河上皇の近臣を務める傍ら、永暦2年(1161年)従四位下、長寛2年(1164年)従四位上、仁安2年(1167年)正四位下と累進し、承安4年(1174年)従三位に叙せられて公卿に列した。その後左京大夫を務め、寿永2年(1183年)正三位・参議に至るが、同年11月に醍醐寺で出家。兄・勝賢に従って真言宗を学んだ[1]。
和歌に優れ、「別雷社歌合」などの作者であり、勅撰歌人として『千載和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に5首が入集している[2]。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年