藤原義忠

日本の平安時代中期の貴族・歌人・儒学者

藤原 義忠(ふじわら の のりただ)は、平安時代中期の貴族歌人儒学者藤原式家大和守・藤原為文の子。官位正四位下権左中弁従三位参議

 
藤原義忠
時代 平安時代中期
生誕 永観2年(984年
死没 長久2年10月1日1041年10月28日
官位 正四位下権左中弁
従三位参議
主君 後一条天皇後朱雀天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原為文、母:不詳
大和宣旨平惟仲の娘)
能成、忠棟、公義、忠宗、定実、土御門院女房、高階為家
養子:義職
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経歴

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対策及第を経て、一条朝末の寛弘7年(1010年)頃に少内記に任ぜられると、後一条朝の初頭まで約10年に亘って内記を務め、この間の寛仁元年(1017年式部大輔藤原広業とともに皇太子・敦良親王(のち後一条天皇)の東宮学士を、寛仁2年(1018年)には式部少輔を兼ねた。寛仁3年(1019年)右少弁に遷ると、翌寛仁4年(1020年)左少弁兼文章博士となり、万寿2年(1025年)ごろまで弁官を務め、治安元年(1021年正五位下に叙せられている。

その後、敦良親王(のち後朱雀天皇)・親仁親王(のち後冷泉天皇)の東宮学士や大学頭を務める一方で、阿波守大和守などの地方官も兼ね、位階は正四位下に至った。また、後朱雀朝長暦2年(1038年)右中弁として弁官に復任すると、翌長暦3年(1039年)権左中弁に昇任し、以降は卒去まで弁官を務めている。

儒学者として侍読の任に当たる一方、和歌にも秀で多くの歌合に出詠者・判者として参加した。後一条・後朱雀両帝の大嘗会和歌作者。万寿2年(1025年)に「義忠家歌合」を主催。長元6年(1033年)には関白藤原頼通が自邸で催した子の日の宴にて、和歌序を作成して禄として御衣を与えられた[1]長久2年(1041年)「弘徽殿女御十番歌合」では判者を務めた。同年10月1日に吉野川で船遊びを行ったが、船が転覆する事故に遭って水死。享年58。最終官位は権左中弁正四位下兼大学頭東宮学士大和守。没後に侍読の労を顕彰され、参議従三位追贈された。

人物

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長元6年(1033年)ごろに鷹司殿(源倫子)の70歳を祝して、漢詩が書かれた色紙形が付いた屏風を作ることになり、民部卿藤原斉信が詩文に優れた博士に漢詩を作らせて色紙形に書くべき詩を選定した[2]。ここで文章博士藤原資業の漢詩が多く採用されたことから、義忠は関白藤原頼通に対して資業の漢詩を難じたという逸話がある[3]

漢詩作品は『本朝続文粋』に、和歌作品は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に4首が採録されている[4]

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

同じく歌人として知られる大和宣旨が、藤原道雅と離別後に義忠の室となった。なお、女房名は義忠の官職である大和守に因んでいる。

脚注

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  1. ^ 続古事談』巻第2-1
  2. ^ 『大日本史』217巻,列伝144,文学5,藤原義忠伝
  3. ^ 『今昔物語』巻24-29
  4. ^ 『勅撰作者部類』
  5. ^ a b 『尊卑分脈』
  6. ^ a b 『権記』
  7. ^ a b 『小右記』
  8. ^ 『御堂関白記』
  9. ^ 『左経記』
  10. ^ a b c d e f g 『弁官補任』
  11. ^ 『御歴代抄』
  12. ^ 源為善が左少弁に任官(弁官補任)
  13. ^ 11月4日見任(『小右記』)、長元2年正月24日藤原基房任(『公卿補任』藤原朝経条)
  14. ^ 『範国記』
  15. ^ 『平安遺文』572
  16. ^ 『春記』
  17. ^ 『帝王編年記』『扶桑略記』『弁官補任』等

参考文献

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