藤原縵麻呂
藤原 縵麻呂(ふじわら の かずらまろ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原式家、中納言・藤原種継の次男。官位は従四位下・大舎人頭。
時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 神護景雲2年(768年) |
死没 | 弘仁12年9月21日(821年10月20日) |
官位 | 従四位下、大舎人頭 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原種継、母:雁高佐美麻呂の娘 |
兄弟 | 仲成、縵麻呂、山人、藤生、井出湯守、世嗣、安継?、薬子、東子 |
子 | 貞成、城成 |
経歴
編集延暦4年(785年)父の藤原種継が暗殺されてまもなく、兄・仲成とともに従五位下に叙せられ、翌延暦5年(786年)皇后宮大進に任ぜられる。桓武朝において、大判事といった京官や、相模介・相模守・因幡守・豊前守等の地方官を歴任する。またこの間の延暦23年(804年)には正五位下から正五位上に昇叙されている。平城天皇の即位を挟んで、大同3年(808年)迄には従四位下・右大舎人頭に叙任され、同年美濃守を兼ねている。
弘仁元年(810年)薬子の変が発生し兄弟の仲成・薬子が死亡するが、縵麻呂は難を逃れたらしく、翌弘仁2年(811年)大舎人頭に任ぜられている。弘仁12年(821年)9月21日卒去。享年54。
人物
編集愚鈍な性質で、書類作成もままならなかった。大臣(種継)の子息であることを以て、内外の諸官を歴任したが、どの官職でも名声を得ることはできなかった。ただ酒色のみを好み、他事を顧みる事はなかったという[1]。
一方で、薬子の変で失脚した藤原仲成・薬子の兄弟であったことから、『日本後紀』にある「酒と女性を好んだ」という記述は保身のための行為で、人目を欺くためにのめりこんだものとする考えもある[2]。
官歴
編集『六国史』による。
系譜
編集『尊卑分脈』による。
- 父:藤原種継
- 母:雁高佐美麻呂の娘
- 妻:不詳
- 男子:藤原貞成
- 男子:藤原城成