藤原経忠
平安時代後期の公卿。従二位・中納言。子に藤原実経(六男)、忠覚、増修、行縁、増忠
藤原 経忠(ふじわら の つねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中関白家、播磨守・藤原師信の子。官位は従二位・中納言。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承保2年(1075年) |
死没 | 保延4年7月16日[1](1138年9月2日) |
別名 | 堀河中納言、正字:經忠 |
官位 | 従二位、中納言 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 |
父:藤原師信 母:安楽寺別当増守または増秀の娘 |
兄弟 | 公衡、基信、経忠、春円 |
妻 | 藤原実子(藤原公実の娘) |
子 | 忠能、経親、信輔、経雅、信経、実経、忠覚、増修、行縁、増忠、藤原家成室 |
経歴
編集白河朝末の応徳3年(1086年)従五位下に叙爵し、寛治2年(1088年)左兵衛佐に任官する。兵衛佐の功労などにより、寛治4年(1090年)従五位上次いで正五位下、寛治7年(1093年)従四位下、嘉保3年(1096年)従四位上と昇進した。
承徳2年(1098年)正四位下・安芸守に叙任されて、地方官に遷る。なお、康和4年(1102年)火災によって経忠の邸宅が焼亡している[2]。康和5年(1103年)宗仁親王の立太子に伴い、東宮昇殿を許される。嘉承2年(1107年)堀河天皇が崩御して宗仁親王が即位すると(鳥羽天皇)、経忠は引き続き昇殿を許される。同年、馬1匹を奉献するための使者として派遣された[3]。嘉承3年(1108年)邸宅に落雷があり、侍者一人が死亡している[4]。
その後、天仁3年(1110年)右馬頭、天永2年(1111年)皇太后亮(皇后は鳥羽天皇准母の令子内親王)と京官を務める一方で、但馬介・近江守等の地方官も兼帯した。
保安5年(1124年)26年ぶりの昇叙により従三位・左京大夫に叙任され公卿に列す。大宰大弐を経て、鳥羽院政期前期の長承2年(1133年)参議に任ぜられた。議政官として左京大夫・大蔵卿を兼任し、長承3年(1134年)正三位に叙せられる。その後も保延2年(1136年)11月に権中納言、12月には中納言に昇任されるなど、鳥羽院政期前期に急速に昇進を果たしている。保延4年(1138年)従二位に至る。
官歴
編集- 応徳3年(1086年) 正月7日:従五位下(令子内親王給)
- 寛治元年(1087年) 12月13日:越前権守
- 寛治2年(1088年) 7月6日:左兵衛佐
- 寛治3年(1089年) 正月6日:兼周防守(院分)
- 寛治4年(1090年) 正月7日:従五位上(佐労)、4月20日:正五位下(行幸鳥羽院賞)
- 寛治5年(1091年) 7月29日:昇殿
- 寛治7年(1093年) 正月5日:従四位下(佐労)
- 嘉保3年(1096年) 正月7日:従四位上(院御分)
- 永長2年(1097年) 正月29日:兵部大輔(今日守得替)
- 承徳2年(1098年) 正月27日:安芸守、7月27日:正四位下(行幸院賞)
- 康和5年(1103年) 8月17日:東宮昇殿(春宮・宗仁親王)
- 長治3年(1106年) 3月11日:得替
- 嘉承2年(1107年) 7月19日:止昇殿(依帝崩也)、新帝昇殿
- 天仁3年(1110年) 正月28日:右馬頭
- 天永2年(1111年) 正月23日:兼皇后宮亮(皇后・令子内親王)
- 天永4年(1113年) 正月28日:但馬介
- 永久3年(1115年) 8月13日:兼近江守、10月13日:還昇、頭亮如元
- 元永2年(1119年) 3月:辞守
- 保安2年(1121年) 6月26日:辞右馬頭(申男忠能任之)
- 保安4年(1123年) 正月28日:止昇殿
- 保安5年(1124年) 正月5日:従三位(行幸二条院賞。新院御給)、12月20日:左京大夫
- 大治3年(1128年) 正月24日:大宰大弐
- 長承2年(1133年) 10月26日:参議、左京大夫如元
- 長承3年(1134年) 2月22日:大蔵卿、止大夫、備前権守、5月19日:正三位(行幸石清水賀茂行事賞)
- 保延2年(1136年) 11月4日:権中納言、12月9日:中納言
- 保延3年(1137年) 12月16日:太皇大后宮権大夫(太皇太后・令子内親王)
- 保延4年(1138年) 正月2日:従二位(行幸院賞)、4月15日:出家。7月16日:薨去
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年