藤原敦光
平安時代後期の貴族、文人、儒学者、漢詩人。正四位下・式部大輔。勅撰集『金葉和歌集』に2首入集。正四位下・式部大輔
藤原 敦光(ふじわら の あつみつ)は、平安時代後期の貴族・文人・儒学者。藤原式家、右京大夫・藤原明衡の子。官位は正四位下・式部大輔。
藤原敦光(菊池容斎『前賢故実』より) | |
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 康平6年(1063年) |
死没 | 天養元年10月28日(1144年11月24日) |
官位 | 正四位下、式部大輔 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 |
父:藤原明衡、母:平実重の娘 養父:藤原敦基 |
兄弟 |
敦基、敦光、明暹 養兄弟:明業(菅原明任子) |
妻 | 源親長の娘、大中臣輔清の娘 |
子 | 有光、長光、成光(四男または五男)、邦光、淳仁、喜覚、光縁、明覚、顕豪、光猷、頼円、号姫子、女子 |
経歴
編集4歳で父・明衡に死別し、兄・敦基の養子として育つ。嘉保元年(1094年)に官吏登用の対策に及第して、承徳2年(1098年)に式部丞に任命される。大内記・文章博士・大学頭を経て、保安3年(1122年)に式部大輔となる。保延元年(1135年)に発表された天変地異・飢饉・盗賊に関する「勘申」を始めとして、漢文を書く能力によって認められ、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の三代に侍読として仕え、彼の手になる詔勅は多い。しかし儒官の功労による参議任官は叶わなかった。天養元年(1144年)4月に病のため出家し、その年の10月28日に没した。享年82。
作品・著作
編集- 「柿本朝臣人麿画讃」「白山上人縁起」含め51編の漢文…『本朝続文粹』所収
- 『朝野群載』『表白集』所収の80編余の漢文
- 『本朝無題詩』所収の漢詩60編余
- 『金葉和歌集』所収の和歌2首
- 『続本朝秀句』『本朝帝紀』の著作があったが散逸。
『古今著聞集』哀傷より | |
往事渺茫共誰語 | 往事渺茫 誰と共に語らん |
閑庭唯有不言花 | 閑庭 唯だ言わざるの花有り |