足利家綱
足利 家綱(あしかが いえつな)は、平安時代末期の武将。通称は足利壱岐守[1]、孫太郎[2]。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の3代当主。 怪力士家綱の伝承や[3]、朝日森天満宮、安楽寺、孫太郎神社など、数多くの神社仏閣の建立や復興、移転に関わったことも伝えられている。
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天承元年12月23日(1132年1月13日)[1] |
別名 | 孫太郎[2] |
神号 | 岩倉大権現[1] |
戒名 | 能仁寺殿野州大守岩光正応大禅定門[1] |
墓所 | 栃木県佐野市山越町の明菊山岩堀[1] |
官位 | 従四位上、壱岐守 |
主君 | 後白河天皇、源義国 |
氏族 | 藤姓足利氏 |
父母 | 足利成綱(成綱死後、祖父足利成行に養子入り) |
兄弟 | 園田成実、大胡重俊 |
子 | 足利俊綱、戸矢子有綱、深栖郷綱、利根成次、西場成実、山上高綱 |
経歴
編集足利郡司で相撲人としても有名だった父、藤姓足利氏の2代当主足利成綱の子として生まれるが、成綱が早世してしまい、祖父足利成行の養子となる。家綱が成人するまでは一族の足利行国が藤姓足利氏の当主を代行したが、成人後は足利家綱が藤姓足利氏の当主となった。そして亡き父同様、家綱もまた相撲人として広く知られるようになり、その怪力と大柄な体格は、以降の子孫にも代々継承されていく。
唐沢山城主となり、源義国の家人となった家綱は、天皇御所を守るため京都へ上洛した際、同僚の小野寺民部義寛の嫉妬により無実の罪に陥れられ、九州筑紫の大宰府に謫せられた。その際に自らと菅原道真の境遇を重ねて太宰府天満宮に祈念したとされる[3]。
その最中の元永元年(1118年)、家綱は後白河天皇の命により、朝鮮より渡来した「蛇慢(じゃまん)」「我慢(がまん)」「岩幕(がんまく)」という三人の力士と試合を行い勝利[4]。この功績により九州太宰府からの帰郷が許された。
帰郷の際に、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請して朝日森天満宮を建立[5][6]。また元永三年(1120年)に安楽寺の移転をしたとされている[4][7]。元永二年(1119年)には建立した朝日森天満宮の祭りに朝廷の勅使、中御門大納言が都から下向し、家綱はこれを下馬し迎えたという話が今に伝わっており、足利市に下馬橋という場所が残っている。このような話が今なお伝わっているところから、家綱が民衆から慕われていたことを伺うことが出来る。
また、康治二年頃から永暦二年(1161年)頃、家綱は下野梁田御厨の地頭職を巡り、源義国や源義康と約二〇年にわたって抗争している。源義国は足利成綱の娘婿であり、足利成綱の相続を巡っていた可能性がある。
寿永三年(1184年)の「林寺本尊胎内銘」には足利家綱の名が刻まれており、寿永2年(1183年)の野木宮合戦にて足利家が滅亡した後も存命だったと考えられる。また、「林寺本尊胎内銘」には足利家綱の孫である乙姫、乙姫の夫である小野寺道綱とその父小野寺義寛の名も書かれており、藤姓足利氏と小野寺氏に深い関わりがあったことを知ること出来る。[8]
死後は遺言により、佐野市の名菊山の岩窟に埋葬された。彼の武勇に肖ろうと、毎年命日になると多くの相撲人が墓参りに来ていたという。現在は採掘により岩窟は失われたが、祠は山の麓に移設され、今もなお大切に守られている。
脚注
編集参考文献
編集- 山士家左伝 編『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841 。
- 佐野市観光立市推進課. “町会のお宝・自慢-天神町”. 佐野市ホームページ. 佐野市役所. 2015年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月30日閲覧。
- 佐野市観光立市推進課. “町会のお宝・自慢-並木町(大門)”. 佐野市ホームページ. 佐野市役所. 2015年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月30日閲覧。
- 佐野市観光立市推進課. “町会のお宝・自慢 紹介コーナーNo.9”. 佐野市ホームページ. 佐野市役所. 2019年12月30日閲覧。
- 佐野市立図書館. “怪力士家綱”. 佐野の民話. 佐野市立図書館. 2019年12月30日閲覧。
- 朝日森天満宮. “朝日森天満宮”. 朝日森天満宮公式ウェブサイト. 朝日森天満宮. 2019年12月30日閲覧。
- 安楽寺. “安楽寺について”. 安楽寺公式ウェブサイト. 積水山 無量寿院 安楽寺. 2019年12月30日閲覧。