藤原実光
平安時代後期の公卿・儒学者・漢詩人・歌人。藤原有信の長男。従二位・権中納言。日野家11代
藤原 実光(ふじわら の さねみつ)は、平安時代後期の公卿・儒学者・漢詩人・歌人。日野実光とも。藤原北家真夏流(日野家)、右中弁・藤原有信の長男。官位は従二位・権中納言。日野家11代当主にあたる。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 延久元年(1069年) |
死没 | 久安3年5月21日(1147年6月20日) |
改名 | 実光→西寂(法名) |
別名 | 日野実光、正字:實光 |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原有信、母:藤原実政の娘 |
兄弟 | 実光、宗光、資経、有範、範綱、資光、宗慶、増覚、覚秀、増実、藤原宗兼室 |
妻 | 藤原有定の娘、高階重仲の娘 |
子 | 日野資憲、資長、光成、光澄、覚海、忠玄、慶智 |
経歴
編集寛治5年(1092年)文章得業生になる。因幡権掾、縫殿助、右衛門少尉を歴任し、康和2年(1100年)従五位下に叙爵。
勘解由次官、右衛門権佐、右少弁、防鴨河使を歴任。天仁3年(1100年)左衛門権佐に任ぜられる。周防介を兼任し、天永2年(1111年)正五位下に陞叙。永久3年(1115年)左少弁に進み、保安元年(1120年)近江守に任ぜられる。
勧学院別当、右中弁を歴任し、保安4年(1123年)従四位上・左中弁に叙任される。天治2年(1125年)には正四位下に昇り、大治5年(1130年)右大弁となる。天承元年12月(1132年1月)参議に任ぜられて、左大弁、勘解由長官を兼ねる。翌年には美作権守も兼任。
長承3年(1134年)従三位・大宰大弐に叙任。保延2年(1136年)権中納言、大宰権帥に進む。保延5年(1139年)正三位に昇り、保延6年(1140年)従二位に至る。
官歴
編集- 寛治5年12月29日(1092年2月8日):文章得業生[1]
- 寛治6年(1092年)正月25日:因幡少掾
- 嘉保3年(1096年)正月24日:縫殿助
- 永長2年(1097年)正月23日:蔵人
- 承徳3年(1099年)正月22日:右衛門少尉、蒙使宣旨
- 康和2年(1100年)正月5日:従五位下(策)
- 康和5年(1103年)11月1日:勘解由次官
- 長治2年(1105年)3月10日:右衛門権佐、蒙使宣旨
- 長治3年(1106年)正月5日:従五位上
- 嘉承元年12月27日(1107年1月22日):右少弁(佐如元)
- 嘉承3年(1108年)3月:防鴨河使
- 天仁3年(1110年)正月28日:左衛門権佐、周防介
- 天永2年(1111年)正月6日:正五位下(佐労) 12月13日:昇殿
- 永久3年(1115年)8月13日:左少弁
- 永久5年(1117年)4月19日:蔵人
- 保安元年(1120年)11月25日:近江守(止蔵人佐)
- 保安2年(1121年)3月:勧学院別当
- 保安3年12月23日(1123年1月22日):右中弁
- 保安4年(1123年)正月6日:従四位下 11月17日:従四位上(大嘗會國司) 12月20日:左中弁
- 天治2年(1125年)11月20日:正四位下(石清水行幸賞)
- 大治5年(1130年)右大弁
- 天承元年12月22日(1132年1月12日):参議 24日:左大弁、勘解由長官
- 天承2年(1132年)正月22日:美作権守
- 長承2年(1133年)2月22日:大宰大弐(去大弁)
- 長承3年(1134年)正月5日:従三位(行幸松尾北野行事賞) 22日:大宰大弐
- 保延2年(1136年)11月4日:権中納言、大宰権帥
- 保延5年(1139年)正月7日:正三位(納言労。先年行幸稲荷祇園行事賞)
- 保延6年(1140年)正月6日:従二位(保安二年行幸春日行事賞)
- 康治2年12月(1144年1月):辞中納言
- 天養元年(1144年)10月22日:出家
系譜
編集甥に親鸞がいる。