蕭 恵休(蕭惠休、しょう けいきゅう、生年不詳 - 500年)は、南朝斉の軍人。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
宋の征西将軍・儀同三司の蕭思話の子として生まれた。永明4年(486年)、広州刺史となった。永明11年(493年)、輔国将軍・南海郡太守から徐州刺史となった。蕭昭業が即位すると、冠軍将軍の号に進んだ。建武2年(495年)、北魏軍が鍾離を包囲したが、恵休が防戦を指揮し、北魏の軍を撃退した。侍中に転じ、歩兵校尉を兼ね、建安県子に封じられた。永泰元年(498年)、仮節を受けて寿陽の援軍として赴いた。永元元年(499年)、呉興郡太守として出向した。10月、建康に召還されて尚書右僕射となった。
永元2年(500年)3月、死去した。金紫光禄大夫の位を追贈された。