蒲察叉察
生涯
編集母は慶宜公主(海陵王の異母姉)、父は蒲察阿虎迭(金の皇族の蒲魯虎の子の阿虎迭とは別人)。
最初の夫は金の宗室の完顔特里(完顔秉徳の弟)であった。天徳2年(1150年)、完顔秉徳の失脚後、海陵王は叉察を奪取しようとした。皇太后(生母の大氏、あるいは嫡母の徒単氏)は海陵王に諫言し、叉察を耨盌温敦思忠(耨盌温敦乙剌補)と再嫁させた。しかし海陵王は耨盌温敦思忠を脅しつけ、結局、叉察を後宮に入れた。
叉察は皇族の完顔守誠と密通し、海陵王は完顔守誠を誅殺した。嫡母の徒単氏[1]は梧桐(海陵王の異母弟の完顔兗)に頼んで叉察のため嘆願し、叉察は赦免された。しかし家奴は海陵王に、叉察が海陵王の悪口を言っていたと密告した。海陵王は「守誠のためお前は俺を悪罵したか」と言い、叉察を誅殺した。
出典
編集- 『金史』 巻63 列伝第1 后妃上
- 『金史』海陵王本紀
脚注
編集- ^ 当時、大氏はすでに故人であった。