菅原定義
平安時代中期から後期の貴族、学者。従四位上・大学頭、大内記、和泉守。贈従一位。菅原氏長者。子に菅原忠章(母は藤原在良の娘)、菅原正長、菅原茂富、定快(延暦寺、安楽寺別当、
菅原 定義(すがわら の さだよし)は、平安時代中期から後期にかけての貴族、学者。官位は従四位上・大学頭。贈従一位。菅原氏長者。
時代 | 平安時代中期-後期 |
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生誕 | 長保4年(1002年[1]) |
死没 | 康平7年12月26日(1065年2月4日) |
官位 |
従四位上、大学頭 贈従一位 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 菅原氏 |
父母 | 父:菅原孝標、母:藤原倫寧の娘 |
兄弟 | 定義、基円、孝標女、女子 |
妻 |
藤原相任の娘、藤原在良の娘 藤原実方の娘 |
子 | 是綱、忠章、在良、清房、正長輔方、茂富、定快 |
経歴
編集菅原氏は代々大学頭や文章博士を輩出した学問の家であり、定義は右大臣にまで昇った菅原道真から数えて6代目に当たる。同母姉妹には『更級日記』の作者、菅原孝標女がいる。
式部少輔、民部少輔、弾正少弼、少内記、大内記、大学頭、文章博士を歴任。永承4年(1049年)に和泉守に赴任した際に菅原孝標女が和泉を訪ねている[2]。康平7年(1064年)12月26日に卒去。享年64。
官歴
編集- 時期不詳:文章得業生
- 治安2年(1022年) 日付不詳:備前掾[3]
- 万寿4年(1027年) 正月7日:見内記[4]
- 長元4年(1031年) 8月3日:見弾正少弼[4]
- 長暦3年(1039年) 12月15日:見弾正弼[5]
- 永承4年(1049年) 冬:和泉守[6]
- 永承5年(1050年)7月21日:見和泉守正五位下[6]
- 天喜2年(1054年)10月:文章博士[7]
- 康平6年(1063年) 11月8日:見従四位下行大学頭兼文章博士[8]
- 康平7年(1064年) 12月26日:卒去[9]
- 寿永3年(1184年) 3月26日:贈従三位(法皇北野行幸賞)[9]
- 乾元元年(1302年) 12月10日:贈正二位[9]
- 元徳2年(1330年) 11月24日:贈従一位(行幸賞)[9]
系譜
編集『尊卑分脈』による。