草苅 重継(くさかり しげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏小早川氏の家臣。美作国国人草苅衡継の子。美作高山城(矢筈城)主。

 
草苅重継
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 弘治4年/永禄元年(1558年[注釈 1]
死没 元和2年4月25日1616年6月9日
改名 草苅重継→福岡重継
別名 通称:次郎→太郎左衛門尉
戒名 了性院
墓所 昌樹山了性院(山口県長門市上三隅2204)
官位 対馬守受領名
主君 草苅景継毛利輝元小早川隆景秀秋→毛利輝元→秀就
長州藩
氏族 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流草苅氏
父母 父:草苅衡継、母:山名兵庫頭の娘
兄弟 景継重継重久、女(中村宗継室)、女(三吉隆勝室)、女(草苅盛雅室)、女(小瀬広勝室)
正室:朝倉弘房の娘
継室:宗像氏貞の長女と三女[注釈 2]
女(鹿村正一室)、就継[注釈 3]、女(都野就辰室)、種継隆継福岡氏継孝継円乗坊
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生涯

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弘治4年/永禄元年(1558年)、美作国国人草苅衡継の次男として誕生。通称は次郎(のち太郎左衛門尉)。

草苅氏毛利氏に与していたが、天正3年(1575年)、兄・景継織田氏へ内通した責任を取り切腹。毛利氏重臣の小早川隆景の斡旋で重継が草苅氏の当主となり、以後は毛利氏に仕えた。

天正10年(1582年)、毛利氏と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による備中高松城の戦いの和睦交渉で美作が割譲されたことにより同国を退去、毛利輝元から勘忍料として備後国に代替地を与えられ居を移す。天正11年(1583年)、備前国宇喜多氏に与する川端家長を打ち破り撤退させている。

主家である毛利氏が豊臣氏に従うと、小早川隆景に仕える。天正13年(1585年)の四国攻めの恩賞として、隆景が秀吉から伊予国を与えられると伊予白実城の城将となり、翌天正14年(1586年)からの九州平定における功績で筑前国を領した際には、筑前宝満城に配された。

また、この頃に宗像氏貞の次女を娶ったことにより、後年の朝鮮出兵の戦功で秀吉から宗像氏の名跡を与えられた[注釈 4]。このため、宗像氏の相伝文書は草苅氏に伝来することになった。

文禄4年(1595年)に主君・隆景が隠居するとその養子・小早川秀秋に仕えるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以前に毛利氏の家臣に復し、安芸国三原で堅田元慶と共に小早川氏家臣団の整理を担当している。

関ヶ原の戦いの後は、毛利氏に従って長門国三隅の地の領主となった。

元和2年(1616年4月25日に死去。享年59。嫡男の就継が後を継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 死没時の年齢から逆算。
  2. ^ 『宗像記』、『宗像記追考』には草苅重継に嫁いだ氏貞長女が死去したので、三女が後添えになったとある。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.216
  3. ^ 一時宗像助次郎と称す。母は宗像氏貞と大友宗麟養女(臼杵鑑速の娘)との間に生まれた長女。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.248~256
  4. ^ 後に福岡姓に改姓している。

出典

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参考文献

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  • 『小早川隆景のすべて』新人物往来社ISBN 4-404-02517-3
  • 岡部忠夫萩藩諸家系譜』(マツノ書店1999年復刻)
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060  国立国会図書館デジタルコレクション