茂呂 (伊勢崎市)
茂呂 | |
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北緯36度19分12.8秒 東経139度11分44.7秒 / 北緯36.320222度 東経139.195750度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 群馬県 |
市町村 | 伊勢崎市 |
地区 | 茂呂地区 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
市外局番 | 0270[1] |
ナンバープレート | 群馬 |
地理
編集廃止当時は旧伊勢崎市の東部、広瀬川沿岸に位置していた。北は今泉町一丁目と今泉町二丁目と粕川町(いずれも昭和46年(1971年)までは大字上泉)、東は佐波郡境町大字保泉、同町大字伊与久、西は連取町(連取本町)、山王町、南は大正寺町、馬見塚町(馬見塚天神町、馬見塚三ツ橋町、馬見塚中町、馬見塚渕町)に接していた。中央部を国道462号線が通っており、地内には光円橋がかかっている。
歴史
編集地名の由来
編集沿革
編集- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行に伴い、佐位郡茂呂村大字茂呂となる。この際地区内に宿組、中屋敷組、下茂呂北組、下茂呂南組、堀組、久保組
- 1896年(明治29年) - 郡制施行にともない、佐波郡茂呂村大字茂呂となる。
- 1931年(昭和6年) - 伊勢崎競馬場[4]が地区西部の茂呂島(堀組)に設立された。
- 1939年(昭和14年) - 軍馬資源保護法交付に伴い伊勢崎競馬場が廃止される。
- 1940年(昭和15年) - 伊勢崎市成立に伴い、伊勢崎市大字茂呂となる。この際地区が再編され、茂呂町一丁目(旧宿組)、茂呂町二丁目(旧中屋敷組)、北千木町(旧下茂呂北組)、南千木町(旧下茂呂南組)、美茂呂町(旧堀組の大部分)、新栄町(旧堀組のうち茂呂島)、茂町(旧久保組)の7町が成立する(いずれも通称町名)。
- 1947年(昭和22年) - カスリーン台風の被害を受ける。学制改革に伴い、伊勢崎市立茂呂中学校が当地内(茂呂町二丁目)に開校する。
- 1948年(昭和23年) - 旧茂呂村役場跡(茂呂町二丁目)に伊勢崎市役所茂呂出張所が設置される。カスリーン台風の罹災者住宅が新栄町の伊勢崎競馬場跡地に建てられる(後の茂呂島団地)。
- 1948年(昭和25年) - 茂呂幼稚園が当地内(茂呂町二丁目)に開園する。
- 1957年(昭和32年) - 茂呂公民館が当地内(美茂呂町)に開館する。
- 1958年(昭和33年) - 伊勢崎市役所茂呂出張所が廃止される。
- 1965年(昭和40年) - 伊勢崎市立茂呂中学校が廃校となり、南中学校に統合される。
- 1967年(昭和42年) - 伊勢崎市立南中学校が当地内(茂呂町一丁目)に移転し、伊勢崎市立第一中学校へ改称。なお、旧南中学校(茂呂中学校)跡地には伊勢崎市立伊勢崎養護学校(現・群馬県立伊勢崎特別支援学校)が開校する。
- 1970年(昭和45年) - 新栄町域が正式町名となり分離。茂町南部が分離し、馬見塚淵町の一部とともに通称町名羽黒団地が成立(大字茂呂には残存)。
- 1982年(昭和57年) - 伊勢崎市立伊勢崎養護学校が粕川町に移転する。なお、旧養護学校跡地には茂呂小学校が移転する。
- 21世紀初頭 - 大字廃止に伴い、茂呂町一丁目、茂呂町二丁目、北千木町、南千木町、美茂呂町、茂呂南町(旧茂町の大部分)、ひろせ町(旧茂町のうち大川沿岸)の各全域及び羽黒町の一部となり消滅。
脚注
編集- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2020年6月15日閲覧。
- ^ “郵便番号”. 日本郵便. 2020年6月15日閲覧。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.
- ^ http://www2.ttcn.ne.jp/~kuro/history/keiba%20chihou/196%20isezaki/top.htm.