若草伽藍
奈良県斑鳩町の法隆寺境内から発見された寺院跡
座標: 北緯34度36分47.3秒 東経135度44分09.9秒 / 北緯34.613139度 東経135.736083度
若草伽藍(わかくさがらん)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。
概要
編集法隆寺は、『日本書紀』の解釈によれば606年(推古天皇14年)、寺伝によれば607年(推古天皇15年)に聖徳太子が建立したとされる。『日本書紀』には670年(天智天皇9年)に法隆寺が焼失したとの記述があるが、現存する法隆寺はその金堂の様式から創建時のものであるとする説もあり[1]、明治20年代から約50年間にわたって現存する法隆寺が創建時のものか再建されたものかを巡って、再建・非再建論争が繰り広げられた[2]。
若草伽藍には、巨大な塔の礎があり、明治10年(1877年)に一度発掘されるが間もなく埋め戻される。しかし、明治19年(1886年)に北畠治房が買い取って自邸に運び、この心礎の上に小さな五重塔を建立する。大正4年(1915年)、北畠は久原房之助に塔とこの心礎を売却し、兵庫県神戸市にあった久原邸に移される。昭和13年(1938年)、今度は久原邸を野村徳七が買い取って別邸にする。[要出典]が、翌昭和14年(1939年)に法隆寺に返還された[2]。
法隆寺は心礎を本来の位置に据えることを希望したため、同年12月から発掘調査が行われた結果、南北に配置された2基の基壇が検出され、塔及び金堂の基壇と推定された。この発掘調査によって、若草伽藍が創建時の法隆寺である可能性が高くなり、再建・非再建論争に一応の結論が出されることとなった[2]。
脚注
編集- ^ 奈良の法隆寺から最古の壁画片 高熱で変色、焼失・再建説裏付け 朝日新聞、2004年12月10日
- ^ a b c 奈良文化財研究所学報 第76冊(2007) 法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告 奈良文化財研究所、p.1、p.187-