苅部清兵衛
苅部 清兵衛(かるべ せいべえ)は、東海道五十三次の4番目の宿場・保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を務めた苅部家(軽部家)歴代当主が襲名した名跡である。
概要
編集1601年(慶長6年)、初代苅部清兵衛が徳川家康より、保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命、1870年(明治3年)に本陣が廃止となるまでの約270年11代にわたり三役を務め、歴代当主が苅部清兵衛を名乗ってきた。
保土ヶ谷本陣・苅部氏の祖先は後北条氏の家臣で、武蔵国・鉢形城の城代家老を務めていた苅部豊前守康則である。1590年(天正18年)北条家が豊臣秀吉に敗れた時に、康則の子・苅部出羽守吉里も戦死、吉里の子・吉重は先祖の菩提を弔うため信州の善光寺に留まるが[1]、1601年(慶長6年)吉重の二男である初代苅部清兵衛が幕府の命で先祖の領地・保土ヶ谷に戻され、保土ヶ谷宿の三役を拝命される。吉重の室、妙秀尼は樹源寺を開いている。
1705年(宝永2年)には、6代清兵衛の娘に豪商・紀伊國屋文左衛門の二男を入婿に迎え(7代目清兵衛吉一)、その持参金で本陣の借財の返済に充てたと言われている[2]。8代清兵衛悦相は若くして三役を引き継ぎ、天明8年(1788年))には幕府から60年余りの勤続を表彰され、苗字帯刀を許された。
10代当主・苅部清兵衛悦甫は初代横浜総年寄(今の中区本町、南仲通、北仲通、弁天通、海岸通)を任命され町の行政を担い、安政6年(1859年)の横浜港開港、横浜道の開発、今井川(帷子川の支流)の改修などに大きな役割を果たし、貿易歩合金制度(貿易商人から売上金の一部を徴収)を導入して横浜町の財政基盤を確立、吉田勘兵衛、高島嘉右衛門とともに横浜三名士といわれた。
明治元年(1868年)の明治天皇東幸時に姓を「苅部」から「軽部」に改称、現在も同地に居住している。11代清兵衛悦巽も、保土ヶ谷宿の三役と横浜総年寄を務めた。清兵衛の孫娘・タマは、昭和天皇の乳母をつとめている[3]。
参考文献
編集- 『有鄰』第465号(平成18年8月10日)
- [2]
- 横浜市歴史博物館企画展『東海道保土ヶ谷宿』(2011年10月1日・横浜市歴史博物館)
- 泉秀樹『東海道五十三次おもしろ探訪―一宿一話で読む歴史雑学の旅』(PHP文庫)