芝木昌之進
(芝木昌平から転送)
芝木 昌之進(しばき しょうのしん、天保5年(1834年) - 明治26年(1893年)8月21日)は幕末・明治初期の加賀藩の英学者。維新後は昌平と名乗り、海軍省翻訳課に出仕した。
経歴
編集天保5年(1834年)加賀藩御細工者芝木権平の嫡子として金沢に生まれた[1]。安政4年(1857年)定番御歩となり、壮猶館で鹿田文平の下、原書素読方御雇御用として兵学書等の素読を行った[1]。
慶応元年(1865年)藩命で高峰譲吉、清水誠等50名と長崎に留学し、何礼之の私塾で英語を学んだ[1]。慶応3年(1867年)4月帰郷し、壮猶館翻訳方、6月からは軍艦方役所英書素読方兼外国方として兵学、天文学、歴史学書等の翻訳に従事した[1]。
明治元年(1868年)道済館で平田宇一と英語を教えたが[1]、その教え方は三宅復一等渡英組にとって変則的であり、明治2年(1869年)致遠館で正則教育が始まると、残った生徒に挹注館で長野桂次郎と英語を教え、明治3年(1870年)中学東校に合併されると、変則課程で引き続き長野と英語を教えた[2]。
明治4年(1872年)の廃藩置県後石川県貫属となったが[3]、明治5年(1873年)8月20日上京して海軍省十等出仕として文書掛[4]、後に翻訳課に勤めた[5]。
明治18年(1885年)8月21日父権平が病没すると[6]、同年帰郷し、明治21年(1888年)金沢高岡町に英文学館を開いて英語を教えた[1]。明治26年(1893年)8月21日没[7]。墓所は寺町四丁目実成寺[1]。
編著
編集- 明治2年(1869年)『地球万国暦史』 - 佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵。後に日本で英語教材として広く普及するPeter Parley's Universal history, on the basis of geography.(『パーレー万国史』)の緒言部分を全国に先駆けて翻訳した[8]。
- 明治4年(1871年)『星学初歩附録』[7]
- 明治7年(1874年)『広益英倭字典』 - 鹿田文平の下で小池精一と途中まで編纂に関わった[9]
- 明治16年(1883年)『海軍秘書官必携』 - 1869年F. H. Chown編述[10]Secretary's Aidの翻訳[11]。
- 明治19年(1886年)『新撰英龢字敟』 - 井波他次郎編。編纂助力者として載る[12]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 板垣 2014, pp. 76–78.
- ^ 金沢大学 1999, pp. 29–32.
- ^ 「乙2号大日記 石川県届 芝木昌平出京の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09110338800
- ^ 「辛2号大日記 文書掛申出 芝木昌平御用出京に付着後日当御渡方」 アジア歴史資料センター Ref.C09110564700
- ^ 「翻訳課届 芝木2等属帰省」 アジア歴史資料センター Ref.C11082457800
- ^ 「8月27日 芝木1等属忌引届」 アジア歴史資料センター Ref.C10101787700
- ^ a b 金沢市 1965.
- ^ 板垣 2014, p. 82-84.
- ^ 板垣 2014, p. 78.
- ^ 「普589 規程局上申 海軍秘書官必携印刷の義上申」 アジア歴史資料センター Ref.C11080640100
- ^ 「規程局ヘ下付 海軍秘書官必携及訳書」 アジア歴史資料センター Ref.C11082400100
- ^ 板垣 2014, p. 80.
参考文献
編集- 板垣英治「壮猶館翻訳方 芝木昌之進と「ハルレー地球万国暦史」について」『日本海域研究』第45巻、金沢大学環日本海域環境研究センター、2014年、hdl:2297/37066。
- 金沢大学50年史編纂委員会, 金沢大学『金澤大學五十年史 通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、1999年。hdl:2297/3178 。
- 金沢市史編さん室『市史年表 金沢の百年』 明治編、金沢市、1965年 。