船木馬養
経歴
編集称徳朝の天平神護3年(767年)7月11日、物を献上した功績で、従八位下より外従五位下に昇叙され、以後、位階はこれ以上あがってはいない。翌神護景雲2年(768年)7月、越前員外守に就任。
光仁朝・桓武朝では村国子老の後任の園池正、文室於保の後任の若狭守を歴任する。
その後、ほどなくして没したらしく、延暦13年(794年)、越前国の人で、船木直安麻呂の言葉として、父親の馬養が公事に供するために米1000斛を収積したが、意志を果たさぬうちにはやくに没したため、自分が米を平安宮の造宮料に供したいと希望し、許されている[1]。
官歴
編集『続日本紀』による。
脚注
編集- ^ 『日本後紀』延暦13年(『類聚国史』巻第七十八「奉献献物」)10月11日条