臼田 金太郎(うすだ きんたろう、1906年9月25日 - 1980年5月27日)は、日本アマチュアボクシング選手、プロボクサー東京都大田区出身。1928年アムステルダムオリンピックウェルター級日本代表。初代および第2代日本ライト級、第8代日本ウェルター級王者(いずれも戦前の王座)。日本拳闘倶楽部、大森拳闘倶楽部、国際拳、臼田ジム所属(所属順)[1]東京植民貿易語学校明治大学卒業。邱永漢の姉・素娥と結婚。

臼田 金太郎
基本情報
本名 臼田 金太郎
階級 ライト級
ウェルター級
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1906-09-25) 1906年9月25日
出身地 東京都大田区
死没日 (1980-05-27) 1980年5月27日(73歳没)
スタイル サウスポー
プロボクシング戦績
総試合数 46[1]
勝ち 31
KO勝ち 不詳
敗け 7
引き分け 7
無効試合 1EX
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来歴

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植民貿易語学校時代は当初、相撲の選手だった[1][2]

  • 1923年1月8日 日倶へ入門[2]。同年9月1日の関東大震災後、日倶復興に時間を要したため、自宅の庭にリングを設けて練習した[* 1]神田の植民貿易語学校が焼失により上野公園・輪王寺の仮校舎へ移転したため、1924年2月23日、その境内で卒業記念として学生ボクシング試合を開いた。日本初のアマチュアの試合であった[2]
  • 1924年4月23日 大学進学後、日比谷音楽堂で日本ライト級王座決定戦として行われた川上清(日倶)との8回戦に6RTKO勝利を収め、18歳にしてプロの初代日本同級王者に認定された[2]。同年11月、鹿毛善光らと明治大学拳闘部を創設した[1]。大学拳闘部は日本初であった[* 2]
  • 1928年5月27日 全日本アマチュア拳闘選手権大会ウェルター級に優勝を収めた。同年、アムステルダムオリンピックにウェルター級の日本代表として出場。1回戦、2回戦ともに判定勝利を収め、3回戦の準々決勝で、この大会の銅メダリストとなるレイモンド・スマイリー(カナダ)に判定負けを喫した。この後、渡米してプロボクサーとして活動[2]
  • 1930年7月31日 トミー・コムスキー(アメリカ)との6回戦では3度のダウンを奪って判定勝利を収め、この試合を見たジャック・デンプシーに絶賛されたと言われる[1]。同年、帰国して国際拳師範となり[2]、自らも試合を行った。
  • 1933年5月23日 両国国技館で行われた日仏対抗戦ウェルター級代表決定トーナメントの決勝戦では、ライオン野口(大日拳)との凄絶な8回戦に引き分け、臼田・野口ともに日本同級王者の認定を受けた。野口陣営の嘉納健治より抗議を受けて黒星へ変更されたものの、主催者からの優勝トロフィーは臼田へと渡った[1][2]

戦績

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  • アマチュアボクシング:不詳
  • プロボクシング:46戦31勝7敗7分1EX[* 3]

以下はプロとして行った試合の判明分[2]

日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1924年4月23日 勝利 6R TKO 川上清   日本 日本ライト級王座決定戦
1930年7月31日 勝利 6R 判定 トミー・コムスキー   アメリカ合衆国 アメリカ遠征試合
1930年12月16日 3R 熊谷二郎   日本 EX
1931年1月16日 3R 熊谷二郎   日本 EX
1931年6月16日 勝利 不明 判定 多賀安郎   日本
1932年2月15日 敗北 8R 判定 熊谷二郎   日本
1932年2月23日 勝利 6R 判定 小林一夫   日本
1932年3月15日 勝利 6R KO 山田淳吉   日本
1932年4月1日 勝利 8R 判定 ダン・スチアート   アメリカ合衆国
1932年4月15日 勝利 不明 判定 熊谷二郎   日本
1932年4月25日 引分 不明 判定 ジョー・サクラメント   フィリピン
1932年5月20日 勝利 不明 判定 フランク・マリナオ   フィリピン
1932年6月 勝利 不明 判定 多賀安郎   日本
1932年7月4日 引分 不明 判定 ヤング・アルデ   フィリピン
1932年7月20日 引分 不明 判定 熊谷二郎   日本
1932年8月4日 勝利 不明 判定 ジョニー・クリスマス   アメリカ合衆国
1932年9月5日 敗北 7R TKO シドニー・ブレント   フィリピン
1932年10月28日 敗北 7R TKO ラッシュ・バスコ   フィリピン
1932年12月16日 勝利 4R KO バッディ・ダウソン   アメリカ合衆国
1933年2月2日 引分 不明 判定 ファイティング・ネルソン   フィリピン
1933年5月11日 勝利 不明 判定 網野松雄   日本
1933年5月23日 敗北 8R 判定 野口進   日本 日仏対抗戦ウェルター級代表決定トーナメント決勝
1933年6月12日 敗北 8R 判定 エイム・ラファエル   フランス
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獲得タイトル

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  • 第2回全日本アマチュア拳闘選手権大会ウェルター級優勝
  • 初代日本ライト級王座(戦前)
  • 第2代日本ライト級王座(戦前)
  • 第8代日本ウェルター級王座(戦前)

注釈

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  1. ^ 当時、自宅に専用リングがあった選手は他に、早稲田大学主将から帝拳へ入った多賀安郎だけであった[2]
  2. ^ 続いて翌1925年に慶應義塾大学拳闘部が発足した[2]
  3. ^ トミー・コムスキー戦を含め、国外での戦績は外部リンクのboxrec.comに7戦の記載がある。国内外ともに詳細は不明瞭。

参考文献

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  1. ^ a b c d e f ボクシング・マガジン編集部編 『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』 ベースボール・マガジン社、2004年3月1日 ISBN 4-583-03784-8、335頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 朝熊伸一郎 「牛をも倒す猛打 臼田金太郎」『ワールド・ボクシング』7月号増刊、日本スポーツ出版社、1993年7月31日 共通雑誌コードT1009804071109 雑誌09804-7、113頁。

関連項目

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外部リンク

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