臼杵神社
臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市大字稲田字林西平に鎮座する神社である。
臼杵神社 | |
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所在地 | 大分県臼杵市大字稲田字林西平131番地 |
位置 | 北緯33度8分36.6秒 東経131度47分10.3秒 / 北緯33.143500度 東経131.786194度 |
主祭神 |
少彦名命 大己貴命 菅原神 |
社格等 | 旧村社 |
創建 | 文保2年(1318年) |
札所等 | 臼杵五社 |
例祭 | 4月第2日曜日・12月19日直近の日曜日 |
概要
編集通称は「臼塚さま」。大友時代臼杵五社の一つ。臼塚古墳の後円部を社殿敷地とし、境内には、舟形石棺2基及び短甲形石人2基がある。
祭神
編集このうち菅原神は、明治9年(1876年)、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社を合併したものである。境内社として、稲荷神社1社(祭神:倉稲魂命)がある。
例祭
編集古文献類では、6月19日及び11月19日とされているが、現在では、4月第2日曜日及び12月19日近日曜日である。例祭で奉納される獅子舞は、寛政7年(1795年)に始まったものである。
境内
編集臼塚古墳(前方後円墳)をすべて境内としている。後円部には、社殿と船形石棺2基がある。また、拝殿前(前方・後円の接続部)に、短甲形石人2基(重要文化財)があったが、現在は、境内整備により、鳥居付近に移動されている。
なお、この短甲形石人については、臼と杵を模ったように見えることから、現在の「臼杵」の名の由来であるとする説がある[1]。
その他
編集従前、同市芝尾地区に鎮座していたのを遷したとする異説もあるが、同説を紹介した最古の文献では「けだし往古よりの鎮座なり」として、これを否定している[2]。
歴史
編集天孫降臨の際に臼と杵を降ろした地とする口承があるが、文保2年(1318年)、託宣により創建されたといい、初めは「臼塚大明神」と称した。
享保14年11月19日(1730年1月7日)「臼杵大明神」と社名を改称し、寛政7年(1795年)に獅子舞が始められ、文化8年(1811年)、神道講釈を開催。天保2年(1831年)と同5年(1834年)には臼杵領内神主20家による湯立神楽が奉納され、安政元年(1854年)、安政南海地震により、境内の石燈が倒壊。
明治9年(1876年)12月、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社1社を合併し、「稲田神社」と社名を改称。大正11年(1920年)、氏子らに社名復旧の動きがあり、「臼杵神社」と社名を改称した[3]。
伝承
編集「神代事記」「陣貝詞」「臼塚射書詞」と称する由緒・意図不明の記号群及び文字列の伝承を記述した文献がある[4]。
文化財
編集- 重要文化財
- 短甲形石人 2箇(重要文化財指定名称は「石甲」)
交通アクセス
編集脚注
編集参考文献
編集- 太田六郎兵衛重澄 『寺社考』、1741年。
- 唐橋世済他編纂 『豊後國志』、1803年。
- 鶴峰戊申 『臼杵小鑑拾遺』、1814年。
- 加島英國編纂 『温故年表録』、1833年。
- 春藤倚松 『臼杵小鑑増補』、1889年。
- 大分縣史蹟名勝天然記念物調査會<史蹟名勝天然記念物調査報告書>第一輯、1922年。
- 小野西渓「大友時代臼杵五社」『臼杵史談』第1巻、臼杵史談会編、歴史図書社、1978年。
- 高橋長一 『臼杵物語』、高橋長一、1978年。
- 染矢多喜男「臼杵領の湯立神楽」『臼杵史談』 80号、臼杵史談会編、臼杵史談会、1989年。
- 臼杵市史編さん室編 『臼杵史談』下巻、臼杵市、1992年。
- 大分県行政文書 「神社明細牒」、1890年。
- 大分県行政文書 「神社慣例」、1893年。
- 大分県行政文書 「豊後國北海部郡神社明細」、1911年。