自然の森M.G.ユースホステル
広島県府中市にあるユースホステル
自然の森M.G.ユースホステル(しぜんのもりエム.ジー.ユースホステル)は、広島県の府中市矢野にあるユースホステル。広島県内に初めてオープンした民営のユースホステル[1][注 1]。
自然の森M.G.ユースホステル | |
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Shizen no mori M.G. Youth Hostel | |
2005年12月 | |
所在地 |
〒729-3423 広島県府中市上下町矢野470-1 |
座標 | 北緯34度40分22.6秒 東経133度6分41.6秒 / 北緯34.672944度 東経133.111556度座標: 北緯34度40分22.6秒 東経133度6分41.6秒 / 北緯34.672944度 東経133.111556度 |
分類 | 民営 |
定員 | 24人 |
開館 | 1959年 |
公式サイト |
www |
旧公式サイト |
wp1.fuchu.jp/~mgyh/ - ウェイバックマシン www.fuchu.or.jp/~mgyh/ - ウェイバックマシン |
関連サイト | JYH協会内ページ |
テンプレート |
歴史
編集上下町出身の森岡まさ子(1910年3月20日 - 2008年5月13日)が夫と1959年に開設した。森岡は女学校卒業後、大阪の大丸デパートで勤務し[3]、1931年に新聞記者をしていた夫と結婚した[4]。夫は翌年新聞記者を辞め、行楽情報誌『モダン・ガイド』の刊行を始めた[5]。1943年11月に夫の郷里甲奴村に疎開した[6]。夫は1945年8月3日に召集され、6日に広島の兵舎で被爆した[7]。
雑誌で「原爆症にラジウム温泉が効く」という記事を見て、1952年3月に上下町の矢野温泉に転居[8]、土産物屋を開店したが、店の運営はもっぱらまさ子が行なっていた[9]。夫は日本中を旅行して歩き、当時建ち始めたユースホステルにも宿泊した[10]。夫婦に子はおらず、ユースを開いて若者を育てよう、と1959年に夫が言い出し、四畳半の離れを宿泊所として夫婦が開設したのがM.G.ユースホステルである。M.G.とは、夫が発行していた行楽情報誌『モダン・ガイド』に由来する[11]。
森岡まさ子はペアレントとしてホステラーに慕われるようになり、暴走族に入り不登校になった高校生が3週間滞在して明るさを取り戻したこともあった[12]。2008年に98歳で死去した[13]。葬儀には利用者500人が参列した[14]。
設備
編集内湯のみだが矢野温泉の湯を使用している。
- ゲストルーム
- 駐車場・駐輪場
- 会議室
- 洗濯機
アクセス
編集注釈
編集出典
編集- ^ 中国新聞 地域ニュース 2008年11月10日 2008-11-30閲覧
- ^ 『昭和三十五年三月九日 開会 昭和三十五年三月三十一日 閉会 昭和三十五年 第一回 定例市議会会議録』広島市議会、49ページ。
- ^ 森岡 1984, p. 28; 石戸谷 1989, p. 20.
- ^ 石戸谷 1989, pp. 22–24.
- ^ 石戸谷 1989, pp. 26–27.
- ^ 石戸谷 1989, pp. 92–93, 149.
- ^ 森岡 1984, pp. 10–15; 石戸谷 1989, pp. 150–153.
- ^ 森岡 1984, pp. 46–47; 石戸谷 1989, pp. 193–194.
- ^ 森岡 1984, pp. 47–48; 石戸谷 1989, pp. 195–196.
- ^ 森岡 1984, pp. 57–59; 石戸谷 1989, pp. 221–226.
- ^ 「明治人 言っておきたいこと 17 MGユースホステル経営・森岡まさ子さん」『読売新聞』1996年12月14日付大阪本社夕刊5面。
- ^ 松岡貴江「森岡まさ子 若者20万人を導いたユースホステルの母」『婦人公論』第81巻第13号、中央公論社、1996年12月、272-276ページ。
- ^ 梅原勝己・松本恭治「森岡ママ死去 ありがとう 全国から 人柄惜しみ17日に集い」『中国新聞』2008年(平成20年)5月14日付13面。
- ^ 松本恭治「「森岡ママ」安らかに 府中市で葬儀 MGっ子ら参列」『中国新聞』2008年(平成20年)5月18日付28面。
参考文献
編集- 石戸谷滋『フォスコの愛した日本』風媒社、1989年。
- 森岡まさ子『煎豆に花が咲いた』朋興社、1984年。
外部リンク
編集- 自然の森M.G.ユースホステル - 日本ユースホステル協会
- 公式ウェブサイト
- "自然の森M.G.ユースホステル". TripAdvisor. 2021年3月24日閲覧。