脇坂安斐
脇坂 安斐(わきさか やすあや)は、江戸時代後期の大名。播磨国龍野藩10代(最後)の藩主。龍野藩脇坂家12代。維新後知藩事・子爵。
脇坂安斐(龍野市歴史文化資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 天保10年11月27日(1840年1月1日) |
死没 | 明治41年(1908年)2月27日 |
改名 | 鎮三郎(幼名)→安斐 |
別名 | 番山(法号) |
墓所 |
兵庫県龍野市龍野町片山の小宅寺 京都府京都市右京区花園の妙心寺隣花院 |
官位 | 従五位下、淡路守、正三位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜→明治天皇 |
藩 | 播磨龍野藩主→龍野藩知事 |
氏族 | 藤堂氏→脇坂氏 |
父母 |
父:藤堂高猷、母:橋本氏娘 養父:脇坂安宅 |
兄弟 | 藤堂高潔、黒田長知、安斐、松平定昭 |
妻 | 正室:井上正春娘 |
子 |
脇坂安足室 養子:安煕(脇坂安宅五男) |
生涯
編集天保10年(1839年)11月27日、伊勢国津藩11代藩主・藤堂高猷の四男として誕生した。龍野藩9代藩主・脇坂安宅の実子の寿之助(後の安煕)が幼少のため、安政5年(1858年)6月に安宅の養子となり、文久2年(1862年)4月22日の安宅の隠居に伴い家督を継いだ。
脇坂家は譜代大名であったため、安斐は佐幕派として摂津国の海防警備を務め、元治元年(1864年)の第一次長州征討、慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも幕府軍の一員として参加したが、長州征伐には消極的だったとされ、第2次長州征伐では安斐の病気を理由に出兵を辞退している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に恭順して、新政府に抵抗した姫路藩の攻撃や会津戦争に参加した。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により龍野藩知事に任じられ、その後は藩の職制改革などに努めたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事を免職された。明治17年(1884年)、華族令により子爵に叙された。明治41年(1908年)2月27日に死去した。享年70。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (龍野)脇坂家初代 1884年 - 1908年 |
次代 脇坂安煕 (脇坂寿) |