胡 瑗(こ えん、淳化4年(993年)- 嘉祐4年6月6日1059年7月17日))は、中国北宋時代の儒学者。翼之。安定先生と称された。は文昭。泰州海陵県の出身。本貫延州延川県安定寨(現在の陝西省延安市子長県)。

事績

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7歳から文章を書き、13歳で五経に通じ、泰山に行き孫復(孫泰山)・石介(石徂徠)について学業を完成。初めは蘇州で経術を教授していたが、景祐2年(1035年)に雅楽を改定するさい、范仲淹の推薦により鐘律を定め、校書郎を授けられた。のちに保寧軍節度使として湖州で子弟数百人に教授した。慶暦年間に太学を興した時には、胡瑗が湖州で制定した法を採用したほど、影響力があった。皇祐年間に太常鐘声を更新し、楽事を定めて大理寺丞となる。その後は太学で教授し、礼部官僚の半数が胡瑗の弟子であったと伝えられる。嘉祐元年(1056年)、太子中允天章閣侍講に選ばれ、病のため太常博士として退官する。嘉祐4年(1059年)6月に死去。

主として明体達用の学を唱え、性命の説を述べ、孫復とともに朱子学の先駆をなした。

著作

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  • 『周易口義』12巻
  • 『洪範口義』2巻
  • 『中庸口義』
  • 『論語説』
  • 『春秋説』

参考文献

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  • 宋史
  • 『宋元学案』