聖寿寺館(しょうじゅじだて)は、青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺にあった日本の城。別称本三戸城(もとさんのへじょう)。国の史跡[1]

logo
logo
聖寿寺館
青森県
別名 本三戸城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 南部信長?
築城年 14世紀中葉?
主な城主 三戸南部氏
廃城年 不明
遺構 曲輪
指定文化財 国の史跡
位置 北緯40度24分43秒 東経141度15分56秒 / 北緯40.41194度 東経141.26556度 / 40.41194; 141.26556
地図
聖寿寺館の位置(青森県内)
聖寿寺館
聖寿寺館
テンプレートを表示

概要

編集

聖寿寺館は中世平城で、糠部(三戸)五ヶ城の一つで、三戸城の北4キロメートル、平良ヶ崎城の西方700メートル地点の聖寿寺集落南西丘陵[2]に位置し、館跡の東・北側は幅20メートルの空堀で背後丘陵から切断され、西・南側は比高差20メートル以上の急壁で囲まれている。

平良ヶ崎城は政庁、聖寿寺館は居館であったと考えられる[3]

歴史

編集

聖寿寺館はもとは三戸城と呼ばれていたが、南部家の菩提寺である聖寿寺がそばにあり、聖寿寺館と呼ばれるようになった。

三戸南部氏11代信長から24代晴政までのおよそ200年間居城としたが、天文8年(1539年)6月、家臣赤沼備中の放火により炎上焼失。「祐清私記」によると、南部晴政が家臣赤沼備中の妻女を城中に引き入れたため、備中は晴政を怨んでおり、知行についても家老奥瀬安芸をも恨んでいた等で放火し、奥瀬安芸を斬って逃げたが、下斗米将家は、これを追いかけ、諏訪の平にて赤沼備中を討ち留めたとある。

その後、三戸城(留ヶ崎城)築城とともに「本三戸城」と呼ばれようになった。

平成16年(2004年)9月30日に「聖寿寺館跡」として、「聖寿寺館跡本体」のほかに、南部氏菩提寺のある「三光寺地区」、氏神である「本三戸八幡宮地区」の3地区が、国の史跡として指定を受けた。

発掘調査の結果、聖寿寺館跡本体は開発による破壊がほとんどなく、中世の状態が良好に保存されており、検出された遺構掘立柱建物跡が4棟、竪穴建物跡が38棟、跡等があった[4]

脚注

編集

参考資料

編集
  • 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205 

関連項目

編集

外部リンク

編集