耶律蘇(やりつ そ、生年不詳 - 天顕元年9月8日[1]926年10月17日))は、(契丹)の皇族。太祖耶律阿保機の弟にあたる。は独昆。太祖の二十功臣の筆頭に名を挙げられた。

経歴

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耶律撒剌的の六男として生まれた。神冊5年(920年)、惕隠となった。神冊6年(921年)、南府宰相となった。義昌軍節度使劉守文が救援を求めてくると、耶律蘇は阿保機の命を受けて援軍におもむき、滄州の包囲を解いた。諸弟の反乱においては阿保機についたが、耶律剌葛らとのあいだにも往来があった。反乱の平定にあたっては、耶律蘇の力が大きかった。

天賛3年(924年)、南院夷離菫の耶律迭里とともに南西の地を経略した。

天顕元年(926年)、渤海に対する征戦に参加し、忽汗城を包囲した。渤海から帰国すると、同年9月壬戌に死去した。

人物

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寡黙で感情を表さなかったが、諸弟のうちで阿保機にもっとも愛された。南府にあっては収賄の醜聞があり、部民に憎まれた。

脚注

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  1. ^ 『遼史』巻2, 太祖紀下 天顕元年九月壬戌条による。

伝記資料

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