耶律室魯(やりつ しつろ、971年 - 1011年)は、(契丹)の政治家軍人は乙辛隠。契丹六院部の出身。

経歴

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聖宗と同年の生まれで、容姿が美しく、聖宗に愛された。成人すると、祗候郎君に任じられた。ほどなく宿直官となった。

遼軍が北宋を攻撃すると、室魯は隊帥となり、南府宰相耶律奴瓜や統軍使の蕭撻凜の下で河北河南の地を攻略し、功績を挙げた。検校太師の位を加えられ、北院大王[1]となった。通利軍を攻撃して落とした。遼と北宋のあいだで和議が成立すると、室魯は門下平章事に特進し、推誠竭節保義功臣の位を受けた。本領である六院部の羊毛と北宋の歳幣の中の絹を交換して利益を上げた。

統和29年(1011年)3月、北院枢密使に任じられ、韓王に封じられた。韓徳譲が北院を私して職務の多くが遅滞したため、室魯が北院枢密使に任命されると、朝野はともに喝采した。

聖宗の松林での狩猟につき従い、沙嶺で死去した。享年は44[2]。守司徒・政事令の位を追贈された。

子女

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脚注

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  1. ^ 『遼史』聖宗本紀5では統和21年(1003年)7月に南院大王になったとするが、これは北を南と誤ったものと疑われている。
  2. ^ 『遼史』列伝で耶律室魯は聖宗と同年(971年)の生まれとされており、年は44で死去したとされるが、『遼史』聖宗本紀6では統和29年(1011年)6月に死去したとされており、生没年と享年が合致しない。いずれかの記述に誤りがあると思われる。

伝記資料

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