織田高重
江戸時代前期の旗本
織田 高重(おだ たかしげ)は、江戸時代前期の旗本。通称は長十郎。官位は従五位下・美作守。織田信長の孫、佐々成政の外孫にあたる。
織田高重(大徳寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長7年(1602年) |
死没 | 寛文元年3月24日(1661年4月23日) |
別名 | 通称:長十郎 |
墓所 |
大徳寺総見院 東京都品川区東海寺清光院 |
官位 | 従五位下・美作守 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
氏族 | 織田氏(信高流高家) |
父母 | 父:織田信高、母:佐々成政娘・光秀院 |
妻 | 正室:能勢頼次四女 |
子 | 一之 |
生涯
編集織田信高の長男として誕生した。生母は光秀院(佐々氏)。
慶長7年12月12日(1603年)、父・信高の死に伴い、生後間もなく家督を相続する。当時、関ヶ原の戦いで西軍に属した信高は失領していたと思料される。
元和2年(1606年)1月、駿府にて徳川家康に拝謁して従五位下・美作守を与えられる。家康は大勢の拝謁者の中に、木瓜の家紋をつけた高重に目をとめ、信長の孫という説明を受けて官位を与えたという。2000石を領する旗本に列したと考えられる。
高重は旗本寄合に所属し、元和3年(1617年)5月26日には、近江国愛知郡に代えて神崎郡に領地を与えられる。寛永12年(1635年)、宇治橋の新造奉行を務める。