織田 信当(おだ のぶまさ[1])は、江戸時代前期の旗本寄合。弥十郎[1]。初名は重直、次いで信尚を名乗る[1]

 
織田 信当
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 寛文11年9月3日1671年10月5日
改名 重直、信尚、信当
別名 弥十郎
戒名 玄岫
墓所 松泉寺(東京都港区赤坂
幕府 江戸幕府 旗本寄合
主君 徳川家光家綱
氏族 織田弥十郎家(織田氏信包系信当流)
父母 父:織田信包、母:不明
兄弟 信重、寿圭、信則信当姫路殿、女子(松平忠明室)、女子(木下利房室、のち、万里小路充房妻)
正室:水野守信
愚門、信吉、信相、女子(三好勝正妻)、女子(宮原義辰妻)
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生涯

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織田信包の四男として誕生した[1]。母は某氏[1]

元和元年(1615年)、16歳のとき、伏見城で、初めて徳川家康秀忠に拝謁した[1]

慶安3年(1650年)9月1日、甥である柏原藩主・織田信勝が嗣子なく死去する[2]。その所領である丹波国氷上郡のうち3000石は、信当が以前から知行しており、これまで通り領知することとなった[1]。のち小姓組に列する[1]

寛文11年(1671年)9月3日、死去[1]。72歳[1]。法名は玄岫[1]赤坂の松泉寺に葬られた[1]

系譜

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○出典:『寛政重修諸家譜[2]

  • 子女
    • 愚門 - 宗哲侍者、摠見寺の住職を務める
    • 織田信吉 - 平兵衛。早世
    • 織田信相
    • 女子 - 三好勝正(猪之助)の妻。のち離婚
    • 女子 - 宮原義辰の妻

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 寛政譜 1923, p. 577.
  2. ^ a b 寛政譜 1923, pp. 576–577.

参考文献

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