細石憲二
細石 憲二(ほそいし けんじ、1937年3月25日 - 2001年5月15日[1])は福岡県出身の元プロゴルファー。
Kenji Hosoishi | |
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基本情報 | |
名前 | 細石 憲二 |
生年月日 | 1937年3月25日 |
没年月日 | 2001年5月15日[1] |
身長 | 170 cm (5 ft 7 in) |
体重 | 90 kg (198 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県 |
経歴 |
来歴
編集福岡で生まれたが、後に名古屋に引っ越した。13歳の時にキャディからゴルフを始め、1955年にプロ入り[2]すると[3]、1960年の日本プロでは決勝で棚網良平に敗れて2位に終わる[2]。棚網が2打目にウッドやロングアイアンを握るパー4で細石がショートアイアンということがしばしばあるなど飛距離で圧倒し、序盤も細石が優勢であった[4]。長打力を生かし、9番を終えて2アップとリードしたが、インに入って棚網の反撃を許す[4]。後半も8番を終えて3アップとアウトは細石が走り、初優勝とプロ日本一に近づいたかに見えたが、ここから棚網が粘る[4]。9番は細石がティーショットを左に曲げて2打目は出すだけで、棚網が一つ返すと、14番で棚網がバーディーを奪って1ダウンに盛り返す[4]。細石は15番でティーショットを左に曲げたことから乱れてダブルボギーで、ついに棚網が追いつかれ、17番パー4は互いに2打目は2番ウッドであった[4]。細石のショットは左に曲がってグリーン左の砂地に落ち、ここからの第3打をオーバーさせて逆サイドのバンカーに入れてしまうが、棚網は確実に寄せてパーと土壇場でついにリードを奪い、そのまま逃げ切りを許した[4]。
1961年には日本プロで中村寅吉・小野光一と並ぶ3位タイ[5]になって上り調子となり、日本オープンに出場[2]。36ホールで行われた最終日は、中村が2オーバーと崩したことで大混戦になり、午前18ホールを終えて通算2アンダーで首位に立った小野を3打差で追う展開になった[2]。午後もアウトを終えて小野が3アンダーで独走し、3打差で細石が追う形になったが、逃げ切り濃厚であった小野がインで4ボギーを叩いて自滅[2]。小野&勝俣功( 日本)・謝永郁&陳清波( 中華民国)と共に通算1オーバーで並ぶ大接戦[2]になり、日没にも決着がつかなかった。1、7、8番の3ホールの合計ストロークで争うプレーオフは、日が暮れてクラブハウスに明かりが灯された頃に始まった[2]。1番で小野、7番で陳がボギーとし、最後の8番で謝がボギー、勝俣がダブルボギーを叩くと、3ホール全てパーを取った細石がプレーオフを制した[2]。最後は競技委員がカップに懐中電灯をつける[2] [6]など、暗闇の中でプレーオフが行われた結果、自動車のヘッドライトの下で細石の優勝が決まった[7] [8]。優勝はパーで決め[9] 、当時のトッププレーヤーを破っての勝利は大きく驚かれた[10]。細石は10mほどのパットを10cmに寄せての勝利であったが、プレーオフ2ホール目でボールの行方に任せて打ったためバンカーに入れたが、最後のパッティングはキャディの言う距離通りに打って決まった[2]。
1963年の中日クラウンズでは初日の第1ラウンドで1オーバーの3位に付けると、午後の第2ラウンドでは杉原輝雄と共に67のコースレコードをマーク[11]。細石は1、2番のバーディで波に乗ると、7番から3ホール連続1パットとパットが絶好調となり、2ラウンドは通算1パット17回(アウト8、イン9)と冴え渡った[11]。11番では第1ラウンドにOBを打ち、第2ラウンドは3パットと苦しめられたが、通算4アンダーの140で単独トップに立った[11]。最終日はスコアに乱れが出始め、前日第2ラウンドの勢いそのままに猛追してきた杉原と大接戦を演じた[11]。第3ラウンドのアウトは、杉原、細石ともに37と6ストロークの差は縮まらなかったが、インに入ると好調であった細石のパットが乱れだす[11]。15、17番を3パットのダブルボギーとし77で、手堅い杉原が追い上げて74をマークし、その差は3ストローク差まで縮まった[11]。午後の最終ラウンドは大接戦となり、細石は、不安定なショットが響き、1、6番でバンカーにつかまってボギーという苦しい展開となる[11]。逆に杉原の追い上げは午後に入っても止まらず、1、5番と絶妙なショートゲームでバーディを獲り、6番では通算2オーバーでついに細石を捕らえたが、細石は10番でバーディを奪い再びトーナメントリーダーに返り咲く[11]。10番で落ち着きを取り戻した細石は、15番で5m近いロングパットを沈めて優位に立つと、続く16番でも3.5mのパットを決めてリードを広げた[11]。一方の杉原は15番で細石と同距離のパットを外してボギーにし、リズムを崩す。結局このパットの成否が明暗を分け、細石は最も苦手としていた17番のショートホールも手前に刻んで、アプローチでピンに寄せパーセーブで優勝した[11]。
その後はアジアサーキットでも活躍し、1966年は3月のマレーシアオープンでハロルド・ヘニング( 南アフリカ共和国)、ピーター・トムソン( オーストラリア)、石井朝夫、ベン・アルダ( フィリピン)に次ぎ、勝俣と並ぶ5位タイに入る[12]。
1967年には再びマレーシアオープンに出場して8位タイに入ると、4月のインディアンオープンでは最終日6位からスタートし、5アンダー68をマークして通算5アンダー287で首位に並び、マルコム・グレッグソン( イングランド)とのプレーオフを制して優勝[13] [14]。
1968年はフィリピンオープン[15]で許渓山(中華民国)・内田繁に次ぐ3位[16]と滑り出し[14]、翌週のシンガポールオープンでは通算9アンダーで優勝した謝永に6打差ながら2位に食い込む[17] [14]。翌週のマレーシアオープンは初日に6アンダー66をマークして首位に立った呂良煥(中華民国)を3打差3位で追いかけ、2日目には内田と共に66で回り、通算9アンダーで首位並走となった[14]。細石は9番パー4(439ヤード)で280ヤードのドライバーショットを放ち、8番アイアンでの第2打を直接入れるイーグルを奪うなど1イーグル、4バーディーであった[14]。3日目には12番まで4バーディーと伸ばし、14番でバンカーに捕まってこの大会初のボギーを叩いたが、16番で3mを入れてこの日68をマーク[14]。通算13アンダーで単独首位に立ち、最終日には上位で機を伺っていた呂との一騎打ちとなる[14]。最終日は3番でボギー[14]にするなど不安定なスタートを切ったが、ティーオフから1時間以内に素晴らしいパッティングとチップショットで落ち着き[18]、4番で9mを沈めて立ち直ると、6、8、12、17番でバーディーを奪い、終盤ボギーを重ねた呂を突き放して優勝[14]。大会新記録の271(-17)[14]でフィニッシュし、呂を4ストロークで倒して、アジアサーキット日本人3人目の優勝者[14]となる[19]。優勝を決めた18番ホールでは1人の日本人が出てきて、細石にシャンパンを頭からかけて大喜びした[14]。優勝賞金は2167ドル(当時約78万円)であったが、細石は「グリーンの調子をつかめたのは君のお陰」とキャディに100ドルを渡した[14]。ラウンド後にトムソンは「細石は私達全員を凌駕し、このツアーでナンバーワンのスターとして浮上する可能性が高い」と語った[18]。4月のインディアンオープンではパー5を9番手でイーグルし、リードを半分に切った。14番ホールまでに細石が初めてソロリードを奪うと、最終的には最終ラウンド69(-4)を撃ち、彼は285(-7)で連覇を達成[20]。大会初の連覇となり、その後はジョティ・ランダワ(2006年-2007年)、SSP.チャウラシア(2016年-2017年)が連覇を記録している[21]。細石はアジアサーキットで連続して勝った最初のプレーヤーとなり、この頃は杉本英世が日本からの唯一のライバルと見なされていた[18]。トムソンも、細石と杉本を日本で最高のゴルファーと見なしていた[18]。5月のブラジルオープンではヒュー・バイオッキ(南アフリカ)と並んで河野高明の2位タイに入り、日本人ワンツーとなった[22]。
1年を通して活躍した細石は、10月にロイヤル・バークデール・ゴルフクラブ(イングランド)で開催されたアルカンゴルファーオブザイヤーチャンピオンシップに出場し、23人中21位であった。11月にローマ( イタリア)で開催されたワールドカップでは河野と共に日本代表として出場し、アル・ボーディング&ジョージ・クヌードソン( カナダ)、ジュリアス・ボロス&リー・トレビノ( アメリカ合衆国)、ロベルト・ベルナルディーニ&アルフォンソ・アンジェリーニ(イタリア)、謝永&呂良(中華民国)、セバスチャン・ミゲル&ラモン・ソタ( スペイン)、コビー・ルグランジ&プレーヤー(南アフリカ)、ボブ・チャールズ&ウォルター・ゴドフリー( ニュージーランド)、リチャード・デイビス&ブライアン・ハゲット( ウェールズ)、ロベルト・デ・ビセンツォ&ボノ・トゥディーノ( アルゼンチン)に次ぎ、ニール・コールズ&バーナード・ハント(イングランド)、ジミー・キンセラ&クリスティ・オコナー( アイルランド)と並ぶ10位タイであった。この頃はマネーランクが存在しない時代であったが、同年はドル仕立ての高額賞金で賞金王の座に就いた[23]。
1966年の下関オープンで杉本と同スコア、1967年のチャンピオンズトーナメントでは杉本を破って優勝[24] [25]。
1968年の西日本サーキットBSでは橘田規、謝敏男(中華民国)との三つ巴戦となり、1ストロークを争う手に汗する激戦、乱戦模様となる[26]。午前のラウンドでは2オーバーで午後のラウンドが勝負どころになり、午後はインからスタートし、細石は10番エッジからそのままホールインのイーグル、11番バーディとたちまちトップグループを追い上げてインを2アンダー34とした[26]。午後のインを終ったところでパープレーを堅持して1アンダーの謝を橘田と共にイーブン、パーで激しく追った[26]。アウト1番で謝は約1mのバーディとチャンスを堅くなっ て僅かに外し、橘田はその1番をバンカーから約5mに上げ、根性で克服してバーディ、細石もこれに劣らず1番をバーディとした[26]。三者がここで完全に並んで争いはいよいよ激烈となり、橘田は4番で6mのロングパットを決めて2アンダーでトップに立ったが、次の5番のアプローチピンから50cmと寄せ、なんでもないパットを外してボギーとしてしまった[26]。ボールはカップの手前で左に切れて観衆からは溜息が漏れ、橘田も一瞬”しまった”と云う表情をした[26]。結果的にはこのボギーが明暗を分けたが、この頃に細石は大きなバスタオルで流れる汗を拭くマイペースでパープレイを続ける[26]。7番ショートホールで勝ち越しのチャンスが訪れ、1オンで右寄り3mのパットを冷静にラインを読んで打つと、やや弱いかと思われたパットがピンの縁で一転びしてバーディとなり、2アンダーで優勝した[26]。
1968年の西日本オープン[27]ではアマチュア中部銀次郎の連覇を阻止してプロの面目を保ち、1969年は西日本サーキット下関で呂良煥を破り、西日本オープンを連覇[28]。
1970年はシンガポールオープンで謝永郁の2位で最終日に入ったが[29] 、最終ラウンド72(+1)を撃ち、6位タイで終えた[30]。翌週のマレーシアオープンではボギーフリーの65(-7)を撃ってソロリードを奪ったが[31]、2日目に76(+4)を撃ち、最終的に31位タイでフィニッシュした[32]。
1971年はシンガポールオープンでジョイントリードを握り[33]、ボギーフリーの67(-4)で開幕したが、最終ラウンド74の8位タイで終えた[33] [34] [35]。同年は日本航空オープンで初日1位で終えるが、優勝はならなかった。
1970年代半ばまでアジアサーキット[36]、1980年代半ばまで日本ツアーでプレーし、1972年の中四国オープン[37]が最後の優勝となる。
1972年の沖縄テレビカップ(6380ヤード、パー72)では日吉定雄・山本善隆・橘田規・宮本省三・新井規矩雄・沼澤聖一・杉原輝雄・村上隆・尾崎将司らを抑え、今井昌雪と並んで[37]、時に56歳5ヶ月と4日、レギュラーの最年長優勝記録を樹立[38]した中村の2位タイに入った[39]。大会は2日間54ホールの忙しくタフな試合であったが、この試合の参加人数などは不明だが、日本中の100数十人のプロが参加し、当時は沖縄返還記念の行事として大々的に開催された[39]。
1986年の中日クラウンズ[40]を最後にレギュラーツアーから引退し、その後はシニア入り。
1996年末まで日本プロゴルフ協会の副会長も務め[1]、1996年にインディアンオープンを制する白潟英純を育てた[41]。
主な優勝
編集- レギュラー
- 1961年 - 日本オープン
- 1963年 - 中日クラウンズ
- 1966年 - 下関オープン
- 1967年 - チャンピオンズトーナメント
- 1968年 - 西日本サーキットBS、西日本オープン
- 1969年 - 西日本サーキット下関、西日本オープン
- 1972年 - 中四国オープン
- 海外
- 1967年 - マレーシアオープン、インディアンオープン
- 1968年 - インディアンオープン
脚注
編集- ^ a b c d e 細石憲二氏死去/元日本プロゴルフ協会副会長 | 全国ニュース | 四国新聞社
- ^ a b c d e f g h i j 第26回日本オープンゴルフ選手権(1961年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ a b 細石憲二 プロフィール|GDO ゴルフダイジェスト・オンライン
- ^ a b c d e f 第28回日本プロゴルフ選手権(1960年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 第29回日本プロゴルフ選手権(1961年)
- ^ 【鷹之台カンツリー倶楽部】太平洋戦争で消滅するも、昭和29年牧場の兼用で復活。コース設計は井上誠一
- ^ JGA 日本ゴルフ協会
- ^ 女子開幕戦6人プレーオフを制したコルダ。ほかの大人数プレーオフは?
- ^ “Obscure Jap Pro Wins Japan Open”. p. 13 (November 11, 1961). 2020年12月10日閲覧。
- ^ “Miyaoka Places 38th In Japan Open Tourney”. Honolulu Star-Bulletin. United Press International: p. 25. (1961年11月10日) 2020年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ “Henning triumphs”. The Straits Times (Singapore): p. 20. (14 March 1966) 8 March 2020閲覧。
- ^ “Hosoishi triumphs”. The Straits Times (Singapore): p. 18. (18 April 1967) 7 July 2020閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉑】1968年、細石憲二が日本選手3人目の極東サーキット制覇
- ^ “Hosoishi leads but Lu is on his tail”. The Straits Times: p. 22. (10 March 1968) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Hsu wins by 8 strokes”. The Straits Times: p. 4. (26 February 1968) 13 March 2020閲覧。
- ^ “Yung-Yo fires eagle to signal victory”. The Straits Times: p. 20. (4 March 1968)
- ^ a b c d Thomson, Peter (11 March 1968). “Top golfer a roly-poly”. The Age: p. 19
- ^ “Open golf to Japanese”. The Canberra Times: p. 19. (1968年3月12日) 2020年12月1日閲覧。
- ^ 川村昌弘参戦!欧州ツアー「ヒーロー インディアンオープン」?小松直行の週刊オフチューブ | ヨーロピアンツアー | ニュース・コラム・お知らせ | ゴルフネットワーク
- ^ 知っ得!SSP.チャウラシアの勝利が意味する事実
- ^ “Takaaki Kono venceu o Aberto Brasileiro” (Portuguese). Jornal do Brasil (Rio de Janeiro, Brazil): p. 20. (5 November 1968) 21 May 2020閲覧。
- ^ マネーランクなき時代の賞金王 ジャンボは1800万円で初戴冠/残したいゴルフ記録
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ a b c d e f g h 「BSCCの歴史」ブリヂストンカンツリー倶楽部公式ウェブサイト
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
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- ^ “Murray, Yung Yo lead into last round”. The Straits Times: p. 26. (1 March 1970) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Yung Yo's S'pore Open by 2 strokes”. The Straits Times: p. 24. (2 March 1970) 19 March 2020閲覧。
- ^ “Hosoishi sets scorching pace”. The Straits Times: p. 24. (6 March 1970) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Arda's title as Kono flops at last two holes”. The Straits Times: p. 24. (9 March 1970) 19 March 2020閲覧。
- ^ a b “Tight finish for Open”. New Nation: p. 15. (5 March 1971) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Serious Yasuda takes Open lead”. The Straits Times: p. 31. (7 March 1971) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Yasuda holds off challenge”. New Nation: p. 14. (8 March 1971) 2020年12月15日閲覧。
- ^ “Marsh is tipped to win in Bangkok”. The Straits Times: p. 30. (28 March 1973) 2020年12月1日閲覧。
- ^ a b 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 驚異のエージシューター田中菊雄の世界90 武藤一彦のコラム
- ^ a b 谷口徹は中村寅さんになれるか 武藤一彦のコラム – GOLF報知
- ^ 細石 憲二選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
- ^ 白潟英純プロフィール | PGA WEB MAGAZINE -Powered by 日本プロゴルフ協会