細川頼長
細川 頼長(ほそかわ よりなが)は、南北朝時代から室町時代の守護大名。備後半国守護、土佐半国守護、和泉守護。細川和泉上守護家2代当主。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
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生誕 | 天授元年/永和元年(1375年)[1] |
死没 | 応永18年5月25日(1411年6月16日)[1] |
別名 | 松法師、九郎 |
官位 | 刑部大輔 |
幕府 | 室町幕府備後半国、土佐半国、和泉守護 |
主君 | 足利義満→義持 |
氏族 | 細川和泉上守護家 |
父母 | 父:細川頼有 |
兄弟 | 頼長、頼顕 |
子 | 持有 |
生涯
編集頼長は、細川基之と共に備後国、土佐国、和泉国を守護として分割・共同統治している。そして備後国・土佐国は2人が統治する以前は嫡流(京兆家)の所領であった(備後→細川頼之、土佐→細川満元)。これは、守護としての権益を1人に独占させず、細川氏庶流同士の勢力を牽制する目的があったと考えられる。また、和泉国には堺があり、当時堺を拠点として反乱(明徳の乱・応永の乱)が発生するほど栄えた土地であったため、室町幕府の崩壊まで2人の守護が共同統治する体制となった[2]。
脚注
編集- ^ a b 『寛政重脩諸家譜. 第1輯』p.606-607
- ^ 末柄豊「細川氏の同族連合体制の解体と畿内領国化」石井進編『中世の法と政治』(吉川弘文館、1992年)