細川政誠
時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 寿文房→細川政誠 |
別名 | 彦四郎、淡路治部少輔、淡路伊豆殿 |
戒名 | 霊芳 |
官位 | 伊豆守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義政、足利義澄、足利義稙 |
氏族 | 細川淡路守護家(佐々木源氏流) |
父母 | 父:大原持綱 |
子 | 誠久、高久 |
概要
編集政誠は、佐々木源氏系大原氏の出身である。政誠(当初は寿文房)は、足利義政が喝食から御部屋衆に取り立てたとされる。天文年間に申次衆の1人であった人物(本郷光泰か)が大館常興からの伝聞などを交えて記した「御対面次第」という故実書には、「佐々木大原息(政誠)」が「細川淡路守名字」を得て喝食から召され、のちに淡路治部少輔と号したと記されている。また、淡路伊豆殿と呼ばれたことも確認できる。義政の死後は、細川姓は剥奪されず、足利義澄に仕えた。永正5年(1508年)に足利義稙が将軍職に復帰すると、政誠は出家していたものの、義稙に帰参している。この際、細川伊豆入道と呼ばれている。政誠の法名は霊芳であった[1]。
以上のように、足利将軍が近侍の者に一門の名字を与え一門の列に加える措置を入名字といい、改名字以前の本来の名字は「本名字」と呼ばれた。
政誠が称した治部少輔は、細川淡路守護家の細川満俊の孫・細川成春が任じられた官途である。また、満俊の弟・細川親経は伊豆守を称している。そのため、政誠は親経の名跡を継いだ可能性がある[1]。また、彦四郎という仮名も淡路守護家の人間が名乗ったものである。
文明14年(1472年)5月13日には、幕府は大原政重が逃亡したことを以て、政重の所領であった近江国大原荘を政誠の知行としている。
明応3年(1494年)11月26日には、六角高頼の所領であった近江国高島郡が幕府の料地となり、政誠がその代官となっている。
明応5年(1496年)8月7日には所領のあった播磨国から上洛しており、大永元年(1521年)に上洛するまで播磨に滞在していた足利義晴と何らかの関係があったと考えられる[2]。
『実隆公記』永正5年(1508年)9月14日条によると、大徳寺にて出家を試みたものの果たされなかったという。
脚注
編集参考文献
編集- 木下昌規『足利義晴と畿内動乱―分裂した将軍家』戎光祥出版、2020年。ISBN 978-4-86403-364-0。
- 設楽薫(著)、中世史研究会(編)「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」『遥かなる中世』第19号、東京大学文学部日本史学研究室、2001年、9-12頁、ISSN 02883074。