細川 政清(ほそかわ まさきよ)は、戦国時代武将細川駿河守家出身で備中守護を務めた。

 
細川左馬助
時代 戦国時代
生誕 不明
別名 四郎
官位 駿河守
幕府 室町幕府 備中守護
主君 足利義政
氏族 細川駿河守家
父母 不明
養子:政光(尹賢)、左衛門佐(宗寅)
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概要

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明応元年(1492年)には駿河四郎と呼ばれている。翌年に備中守護細川勝久が亡くなり備中守護職を務めることとなった。

備中守護代で細川京兆家被官でもあった庄元資と備中守護は2年ほど対立・合算を行っており、明応3年(1494年)には政清が元資の国外追放に成功している[1]

後継者として細川野州家細川春倶の次男・政光がいたが、政光は細川典厩家を継承することとなったため、その弟である四郎が駿河守家の後継者となった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 古野貢『中世後期細川氏の権力構造』(吉川弘文館、2008年)

関連項目

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