細川勝之
室町時代の武士。細川野州家。
細川 勝之(ほそかわ かつゆき、文安5年(1448年) - 大永2年(1522年)11月25日)は、室町時代の武士。細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元の猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正。諱(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 文安5年(1448年) |
死没 | 大永2年(1522年)11月25日 |
別名 | 六郎、宗林(法名) |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義勝 |
氏族 | 細川野州家 |
父母 |
父:細川教春 義父:細川勝元 |
兄弟 | 勝之、政春、春倶、兼子(二条政嗣正室)、女子(日野政資室)、女子 |
子 | 湯浅宗正 |
生涯
編集応仁の乱では養父の指揮する東軍の武将として奮戦した。相国寺の戦いでは、安富元綱らと共に3,000人の兵士を率いて西軍の進撃を防衛。しかし、大内氏・土岐氏・畠山氏・一色氏らの軍勢によって大苦戦を強いられ、最終的には撤退する。その際、重傷を負った勝之は、家臣の湯浅宗武の命を懸けた護衛で救われ、逃げ延びた。自身を逃して討ち死にした宗武の忠義に感激した勝之は、宗武の妹を妻とし、その間に生まれた子(宗正)を湯浅氏の養子とした。
一時は勝元から京兆家の家督を譲られる地位にあったが、山名氏との血縁を重視する家臣たちの反発を受けた。文明4年(1472年)1月の応仁の乱講和の際は、東軍内の対山名氏穏健派と激しく対立した。翌文明5年(1473年)の勝元の死後、勝之は出家し、家督は実子の政元が継承した。後に政元の死後に京兆家当主となった細川高国は甥に当たる。出家をした後は宗林を名乗り、大徳寺の長老となり紫衣の着用を許可された。また、足利義尚の御供衆、後に御相伴衆を務めた[1]。