紀田彰一

日本の元プロ野球選手 (1976-)

紀田 彰一(きだ しょういち、1976年5月19日 - )は、神奈川県川崎市[1]出身の元プロ野球選手内野手)。現在はニューヨーク・ヤンキーススカウト野球解説者を務めている[2]

紀田 彰一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県川崎市幸区
生年月日 (1976-05-19) 1976年5月19日(48歳)
身長
体重
178 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 1996年5月14日
最終出場 1996年5月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴

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プロ入り前

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小学1年の時にリトルリーグで野球を始め[1]、中学2年生の時に野村克也がオーナーを務めるリトルシニアの「港東ムース」の三塁手としてシニア大会世界一を経験した[3]。小学生のころから落合博満に憧れており[4]。また中学時代からプロ野球選手を目指していたという[5]

横浜高等学校時代は1年から4番打者[6]、三塁手として起用された[3]。2年生だった1993年には春の甲子園へ、3年生だった1994年には春の甲子園夏の甲子園に出場した[3]。3年夏は県大会で28打数14安打打率.500の成績を記録したが[7]、甲子園では1回戦の那覇商業戦で全打席敬遠気味の四球を与えられ、活躍の機会がなく敗退。高校の同期には斉藤宜之多村仁[3]矢野英司らがいる。

プロ野球選手時代

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1994年のNPBドラフト会議前には、一本足の豪快な打撃フォームで高校通算41本塁打を記録したスラッガーとして評価されており[4]、地元球団である横浜ベイスターズ中日ドラゴンズの2球団が、それぞれ紀田を1位指名することを公表していた[8]。またこの2球団に加えて、福岡ダイエーホークスも白羽の矢を立てていたという報道もあり[9]、実際にダイエー監督王貞治が紀田の実家がある川崎まで出向いていた[5]。横浜球団社長の大堀隆は紀田を「横浜高出身の彼は、地元のヒーローになりうる」と[8]、また中日球団の編成部長・岡田英津也も「野手としては抜きん出ていた」と、それぞれ紀田を高く評価していた[10]。そしてドラフト会議当日には横浜・中日の2球団から1位指名を受け、抽選の結果、横浜が交渉権を獲得した[11]。横浜の担当スカウト稲川誠[4]。本人はドラフト会議前に「地元の横浜には思い入れがあるけど、プロになるのが目標。球団にはこだわらない」とコメントしており[12]、会議直前には中日ファンから電話がかかってくることが増えた旨や、仮に中日に入団した場合は1997年に完成するナゴヤドームでプレーしたいという旨を語っていた[5]。一方、横浜が抽選権を獲得したことを受けて「県大会で(横浜の本拠地)横浜スタジアムで試合していたので、大変うれしい」「(自身も落合のように)40歳になるまでプレーしたい」とコメントし[4]、12月9日には契約金8,000万円、活躍度に応じた後払い金3,000万円、年俸720万円(いずれも推定)で横浜と正式契約を締結した[13]。なお中日は紀田の交渉権獲得に失敗した場合の外れ1位として、金森隆浩立命館大学)と西口文也立正大学)をリストアップしており[5]、実際には金森を紀田の外れ1位として指名した[11]。また斉藤は読売ジャイアンツ(巨人)から、多村も紀田と同じ横浜からそれぞれ4位指名を受けており、同一高校から3年生3人が同じ年のドラフト会議で指名された事例は、1988年PL学園高校立浪和義橋本清野村弘)以来となった[3]。本人は入団時、当時欠番だった背番号3を希望していたが[3]、実際に着用した背番号は28だった。

プロ1年目の1995年は一軍(セントラル・リーグ)出場の機会はなく、二軍イースタン・リーグ)では74試合に出場して打率.203・2本塁打・15打点の成績を残した。2年目の1996年には、二軍で75試合に出場して打率.179・10本塁打・36打点(75試合)の成績を残し、一軍公式戦に初出場してプロ初安打を記録する。

しかし3年目の1997年には怪我をして一軍では出場機会を得られず、二軍でも18試合出場、打率.154・0本塁打・1打点の成績に終わる。4年目の1998年には、一軍が前身の大洋ホエールズ時代の1960年以来、38年ぶりとなるセ・リーグ優勝を達成したが、紀田自身は一軍では出場機会を得られず、二軍でも62試合に出場しながら打率.096(104打数14安打)・0本塁打・1打点の成績に終わった。

5年目の1999年も一軍出場なしに終わり、二軍でも28試合に出場して打率.069・0本塁打・3打点の成績に終わり、同年10月4日には横浜から戦力外通告を受けた[14]西武ライオンズの秋季キャンプで行われた入団テストを受験して合格し[15]2000年は西武でプレーしたが、同年の9月29日に再び戦力外通告を受け[16]、同年限りで現役を引退[1]

引退後

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引退翌年の2001年からアメリカ合衆国に留学し、2005年にアメリカ・メジャーリーグニューヨーク・ヤンキースの極東スカウトになった。ヤンキース史上、日本人とスカウト契約をしたのは彼が初めてである。また、J SPORTSAmeba TVMLB中継の解説を担当している。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1996 横浜 6 11 10 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .100 .182 .200 .382
通算:1年 6 11 10 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .100 .182 .200 .382

記録

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背番号

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  • 28 (1995年 - 1999年)
  • 64 (2000年)

脚注

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  1. ^ a b c 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年4月25日第1刷発行、181頁。ISBN 978-4816917714
  2. ^ ヤンキースがマー君獲り!「ダルに匹敵する逸材」と高評価”. スポーツニッポン. 2013年1月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『中日スポーツ』1994年11月19日第5版3頁「クジで横浜に決定 紀田「背番3ほしい」 横浜高のクリーンアップ3人指名」(中日スポーツ)
  4. ^ a b c d 『読売新聞』1994年11月19日東京朝刊スポーツB面18頁「プロ野球ドラフト会議 1位指名に高校生が7人 ダイエー城島を強行指名」(読売新聞東京本社)
  5. ^ a b c d 『中日スポーツ』1994年11月18日第5版1頁「紀田(横浜高)中日1位 横浜とクジ勝負 確率5割、高木監督が引き当てる 外れれば金森(立命大)らが候補に」(中日新聞社)
  6. ^ 中日新聞』1994年11月19日朝刊運動一面25頁「プロ野球ドラフト会議 12球団の1位指名選手」(中日新聞社
  7. ^ ベースボール・マガジン』1995年春季号「高校新卒ルーキーくん28人の横顔」ベースボール
  8. ^ a b 読売新聞』1994年11月8日東京朝刊スポーツA面21頁「【横浜】横浜が横浜高・紀田彰一内野手をドラフト1位指名へ」(読売新聞東京本社
  9. ^ 『中日新聞』1994年11月16日朝刊運動二面20頁「紀田、3球団競合か 18日にドラフト会議 1位、2位 内定既に13選手」(中日新聞社)
  10. ^ 『読売新聞』1994年8月22日東京夕刊K6 3頁「高校球児、スカウトたちの採点は?嘉勢北陽)と橋本宇和島東)光る長打力」(読売新聞東京本社)
  11. ^ a b 中日スポーツ』1994年11月19日第5版1頁「ドラフト1位 金森(立命館大) はばたけ147キロ右腕 早くも心は竜の一員 無念!紀田は横浜」(中日新聞社
  12. ^ 『中日新聞』1994年11月18日朝刊運動二面26頁「運命の時へ揺れる紀田 指名待つ高校生緊張」(中日新聞社)
  13. ^ 『読売新聞』1994年12月10日東京朝刊スポーツA面17頁「【横浜】横浜がドラフト1位・紀田、4位・多村と正式契約」(読売新聞東京本社)
  14. ^ 朝日新聞』1999年10月5日東京朝刊第一スポーツ面21頁「横浜が7選手に戦力外通告(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社
  15. ^ 『読売新聞』1999年12月4日東京朝刊スポーツC面18頁「【西武】西武、入団テスト合格の紀田、井手元と契約/プロ野球」(読売新聞東京本社)
  16. ^ 『読売新聞』2000年9月30日東京朝刊スポーツA面18頁「西武が横田久則投手ら5選手に戦力外通告/プロ野球」(読売新聞東京本社)

関連項目

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外部リンク

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