紀国守
平安時代初期の貴族・医師。従五位下・典薬頭。
紀 国守(き の くにもり)は、平安時代初期の貴族・医師。常陸介・紀真人の子。官位は従五位下・典薬頭。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位下・典薬頭 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 紀臣→紀朝臣 |
父母 | 父:紀真人 |
兄弟 | 末守、今守、貞守、国守、魚守 |
子 | 貞範 |
経歴
編集仁明朝の承和元年(834年)外正五位下に昇叙され、承和3年(836年)には内位の従五位下への叙位を受ける。承和9年(842年)に弟・魚守と共に、臣姓から朝臣姓に改姓する(この時の官位は外従五位下・侍医)[1]。のち内薬正・典薬頭を歴任した。
逸話
編集春宮(貞明親王(のち陽成天皇)か?)が腹痛を伴う病気となった際、硝石から成る薬品を調合し「この薬を服用した後、一旦悩み苦しむが、のちに効果が現れるはずである」と言った。春宮が薬を服用したのち、もだえ苦しみ始めたため、国守は春宮帯刀所に送られた。帯刀舎人らは剣を抜いて、「もし春宮が崩じることがあれば、当然国守を刺し殺すべきだ」と言ったが、結局、薬の効果により春宮の病気は快癒した。後日国守は「春宮に万一のことがあったなら、国守の命もなかっただろう」と言って、医道を止めてしまい、子孫にも医道を伝えることはなかった(『古事談』)[2]。
国守は家業として医道を伝えて来たが、紀氏の衰退から脱却するために、新しく家を継ぐ者には紀伝道を学ばせるという遺誡を残し、子息の貞範は紀伝道を学んだという(『三国伝記』)[3]。
官歴
編集『六国史』による。