紀元前255年
年
紀元前255年(きげんぜん255ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 |
前270年代 前260年代 前250年代 前240年代 前230年代 |
年 |
前258年 前257年 前256年 紀元前255年 前254年 前253年 前252年 |
当時は、「マルクス・アエミリウス・パウッルスとセルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオルが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元499年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前255年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集共和政ローマ
編集- アディスの戦いに敗れたカルタゴはスパルタ人の傭兵Xanthippusを雇い、軍を再編した。Xanthippusに率いられた新生カルタゴ軍は、チュニスの戦いでローマ軍を破り、指揮官のマルクス・アティリウス・レグルスを捕えた。レグルスの救出に向かったローマ軍の艦隊は、シチリア沖の嵐で難破した。
エジプト
編集- 第二次シリア戦争で、プトレマイオス2世は、シリシア、パンフィリア、イオニアの領土を失い、アンディオコス2世は、ミレトスとエフェソスを奪回した。その後、アンティオコスとプトレマイオスの間で和平が結ばれ、アンティオコスはプトレマイオスの娘ベレニケと結婚した。
バクトリア
編集- セレウコス朝のサトラップであったディオドトス1世は、アンティオコス2世に対して反乱を起こし、グレコ・バクトリア王国を建国した。
中国
編集- 秦の河東郡守の王稽が諸侯と通じた罪で処刑された。自分が推挙した人物が次々と失態を犯したことに恐縮した范雎は、蔡沢の意見を容れて致仕した。
- 蔡沢が秦の相国となったが、数カ月で辞任した。
- 楚の春申君が荀況を蘭陵令として登用した。
- 周の民が東周に逃れた。秦は周の宝器を奪って、西周公の身柄を憚狐の聚に移した。
天文学
編集誕生
編集→「Category:紀元前255年生」も参照
死去
編集→「Category:紀元前255年没」も参照
脚注
編集注釈
出典