紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日1870年11月17日[1] - 昭和15年(1940年9月20日)は、日本政治家実業家日前神宮・國懸神宮宮司栄典正三位勲三等男爵[2]貴族院議員(通算6期29年)。

紀 俊秀
きい としひで
生年月日 1870年11月17日
(旧暦明治3年10月24日
出生地 日本の旗 紀伊国名草郡秋月村
没年月日 (1940-09-20) 1940年9月20日(69歳没)
死没地 日本の旗 東京府東京市芝区
出身校 学習院高等学科卒業
前職 日前神宮・國懸神宮宮司
所属政党 公正会
称号 正三位勲三等男爵
配偶者 紀美稔

選挙区 伯子男爵議員
当選回数 3回
在任期間 1925年7月10日 - 1940年9月20日

日本の旗 貴族院議員
選挙区 伯子男爵議員
当選回数 3回
在任期間 1897年7月10日 - 1911年7月9日

在任期間 1923年7月 - 1931年3月
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生涯

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明治3年(1870年)10月24日、日前神宮・國懸神宮宮司紀俊尚と鶴子の三男として紀伊国名草郡秋月村(現在の和歌山県和歌山市秋月)で生まれる[3]幼名文麿(ふみまろ)[3]学習院高等学科卒業[4]。明治24年(1891年)1月に名を俊秀と改め、同年10月に日前神宮・國懸神宮宮司となる[3]。明治29年(1896年8月26日家督を相続して男爵を襲爵した[3]。明治30年(1897年7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任した。

大正12年(1923年)7月、第4代和歌山市長に就任し、博愛生命保険万寿生命保険社長日本大博覧会評議員、税法整理案審査委員、地方制度調査会委員、大阪毎日新聞顧問[1]東京日日新聞顧問[4]、大日本映画教育研究会会長[5]などを歴任。

大正14年(1925年7月10日、貴族院議員に再選して公正会に所属する。昭和15年(1940年9月19日首相官邸で行われた第12回教育審議会に出席中脳出血で倒れ、翌9月20日午前2時10分に搬送先の東京府東京市芝区明舟町(現在の東京都港区虎ノ門)の佐多病院で死去[5]。69歳没。家督は奈良華族出身で婿養子俊忠が継いだ。墓所は東京都多磨霊園

栄典

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位階
勲章等

系譜

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  • 父:紀俊尚(日前神宮・國懸神宮宮司、天保6年8月13日 - 明治29年8月4日)
  • 母:鶴子(伯爵松木宗有長女、弘化4年12月28日 - 明治44年5月14日)
    • 弟:紀俊(日前神宮・國懸神宮宮司)
  • 妻:美稔(士族山本晟忠五女、明治8年3月24日 - 昭和31年2月27日)
    • 長女:富美子(紀俊忠夫人、明治30年6月14日 - 平成3年12月9日)
    • 次女:富久子(佐佐木行篤[10]夫人)
    • 三女:富佐子(平野義賢養女、明治41年6月23日 - )
    • 四女:富喜子(西篤二夫人、明治43年7月25日 - )
  • 養子

脚注

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  1. ^ a b 華族会館[1938: 109]
  2. ^ 『官報』第4117号、1940年9月25日。
  3. ^ a b c d 筒井[1911: 242]
  4. ^ a b 華族会館[1937: 550-551]
  5. ^ a b 『読売新聞』1940年9月21日付夕刊、7版、2面。
  6. ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
  7. ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
  8. ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  10. ^ 侯爵佐佐木行忠の弟。

参考文献

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  • 筒井住蓮編 『大日本華族大鑑』 都通信社、1911年、242頁。
  • 維新史料編纂会編 『現代華族譜要』 日本史籍協会、1929年、219頁。
  • 華族会館編 『華族家庭録(昭和11年12月調)』 華族会館、1937年、550-551頁。
  • 『華族名簿(昭和13年5月30日調)』 華族会館、1938年、109頁。
  • 和歌山市編 『和歌山史要』 和歌山市、1939年、107頁。

関連項目

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公職
先代
遠藤慎司
  和歌山市長
官選第4代:1923年 - 1931年
次代
­渡辺行太郎
爵位
先代
紀俊尚
男爵
紀伊国造紀家第2代
1896年 - 1940年
次代
紀俊忠