箭弓稲荷神社 (東松山市)

埼玉県東松山市にある神社

箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)とは、埼玉県東松山市にある神社である。旧社格は県社で、戦後は神社本庁別表神社となった。

箭弓稲荷神社

鳥居と拝殿
地図
所在地 埼玉県東松山市箭弓町2-5-14
位置 北緯36度02分04秒 東経139度23分55秒 / 北緯36.03444度 東経139.39861度 / 36.03444; 139.39861 (箭弓稲荷神社 (東松山市))座標: 北緯36度02分04秒 東経139度23分55秒 / 北緯36.03444度 東経139.39861度 / 36.03444; 139.39861 (箭弓稲荷神社 (東松山市))
主祭神 保食神
(宇迦之御魂神豊受比賣神)
社格県社別表神社
創建 712年(和銅5年)
本殿の様式 権現造
別名 やきゅうさま
例祭 9月21日
地図
箭弓稲荷神社の位置(埼玉県内)
箭弓稲荷神社
箭弓稲荷神社
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まれに日本三大稲荷[1][要出典]日本五大稲荷[2][要出典]の一つとされることがある。

歴史

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712年(和銅5年)の創建と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだが、1030年(長元3年)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した際に、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。

社名の由来については、1028年(長元元年)に下総国平忠常が謀反を企て安房上総下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。これを受けて源氏の棟梁源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。

これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。

同形の物語としては、さかのぼること791年(延暦10年)坂上田村麻呂が箭弓稲荷より南西約4kmにある岩殿観音付近の雪見峠(セメント採掘により峠としては現存しないが、地名として残っており現在の東松山市大字岩殿字雪見峠付近)の悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えがある。

一方で関連する寺院として、福聚寺の草創については次のようにある。当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。1617年(元和3年)、天海僧正駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。 『新編武蔵風土記稿』には「享保中より殊に威徳著しく諸人信仰するもの多し 今の如く市店旅宿門前に並へるは彼頃よりのことなり」とある[3]

明治初年、神仏分離により福聚寺は別当から離れることとなった。(福聚寺は今も東松山市本町に存在している(市立図書館から沼をはさんだ反対側))

祭神

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  • 保食神(宇迦之御魂神・豊受比賣神)

境内

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かつては広大な敷地を持っていたが、駅前に位置している事もあり、ホテル自動車学校、テニスコートなどに代わってしまっている。

  • 本殿1715年(正徳5年)に地頭・島田弾正の計らいにより建造されたもの。
  • 幣殿1811年(文化8年)の建造と伝えられる。
  • 拝殿1835年(天保6年)に領主 松平大和守の造営。
  • 穴宮稲荷(団十郎稲荷) - 7代目市川団十郎は、芸道一筋に生きた歌舞伎役者で当社の熱心な崇敬者であったと伝える。社伝によると、歌舞伎の演じ物に「葛の葉」「狐忠信(義経千本桜四段目 河連法眼館の段)」があり、狐の仕草が非常に難しいとされるが、団十郎は稲荷大神に心願し、その加護を受け、ついに江戸柳盛座で見事に演じきり、大盛況のうちに興行を終えることができたという。そのため、大願成就のための石祠一社を1821年(文政4年)に奉納している[4]。これは、お穴様と呼ばれる穴宮神社で、現在でも技芸向上に励む人々から信仰されている。

文化財

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  • 本殿・幣殿・拝殿(附 本宮本殿1棟、棟札3枚、文書1冊)(建造物) - 国の重要文化財[5][6]
  • 絵馬 8枚(東松山市指定文化財)

「関羽と張飛」「馬上の中国武人」「武人と騎馬武者」「予譲の仇討」「牛若丸と弁慶」「俵藤太秀郷」「文人脇息に寄り」「○呉服店」(○は○に二)

牡丹園

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牡丹園(2010年5月)

箭弓稲荷神社の境内にある牡丹園は1923年(大正12年)、東上本線坂戸町駅~武州松山駅(現在の東松山駅)間の延伸開業の際に、東武鉄道社長根津嘉一郎から奉納されたものである。現在では、3,500平方メートルの敷地に1,300株の牡丹がある。

なお、東松山市内には、30,700平方メートルの敷地に9,100株の牡丹がある東松山ぼたん園もある。

その他

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  • かつて東松山駅東口に大鳥居があったが、2008年(平成20年)秋に駅前の再開発事業により撤去された。なお、この鳥居は箭弓稲荷神社と直接の関係は無かった(東松山市観光協会が建てたものである)。また、東上線の線路を越えた神明町の旧表参道跡にも箭弓稲荷神社の鳥居がある。
  • 商売、勝負の神様として特に有名である。
  • 「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れる。また、これに因んで「バット絵馬」「ベース絵馬」等が頒布されている。
  • 箭弓稲荷神社周辺の地名は「箭弓町(やきゅうちょう)」といい、同神社に由来している。
  • 主な芸能人の崇敬者には落語家初代林家三平並びにその子息の9代目林家正蔵がいる。1964年(昭和39年)の週刊新潮に載る初代林家三平の談によると、海老名家(林家)には代々手のひらに乗るほどの小さな「武州松山の箭弓稲荷様」が伝わっている。いつごろのものかわからないが、海老名家の先祖は講談で有名な町奴、幡随院長兵衛に登場する旗本・水野成之(十郎左衛門)の配下である海老名弾正とされ、箭弓稲荷様は海老名家の守り神様で、いつも肌身はなさず持っている。楽屋にいる時は、楽屋に祀り、手を合わせて拝む。この手が拝むときに上がれば、その日の高座の芸はうまくいき、下がれば調子が良くない。誠に霊験あらたかな神様である、という話である。

住所

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埼玉県東松山市箭弓町2-5-14

アクセス

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鉄道

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自動車

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脚注

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  1. ^ “11.箭弓稲荷神社”. 足立朝日 (朝日新聞販売店 足立朝日会). (2009年11月20日). http://www.adachi-asahi.jp/?p=7975 2018年11月16日閲覧。 
  2. ^ 西口店近くの有名な神社です 箭弓稲荷神社”. ピタットハウス東松山西口店. 2018年12月16日閲覧。
  3. ^ 新編武蔵風土記稿 松山町.
  4. ^ 清水宣弘 1981, pp. 54–59.
  5. ^ 文化審議会の答申(重要文化財(建造物)の指定)(文化庁報道発表、2023年11月24日)。
  6. ^ 令和6年1月19日文部科学省告示第2号。

参考文献

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  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、61頁下段
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、334頁下段
  • 清水宣弘 編『町場の民俗』東松山市〈東松山市史編さん調査報告第22集〉、1981年。 
  • 「松山町」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ195比企郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764006/101 

関連項目

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外部リンク

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