第六号海防艦[注釈 2](だいろくごうかいぼうかん)は、日本海軍の海防艦第二号型海防艦(丁型)の3番艦。太平洋戦争の終戦直前、輸送任務中に撃沈された。

第六号海防艦
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 第二号型海防艦
建造費 5,363,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル戦計画
起工 1943年10月5日
進水 1944年1月15日
竣工 1944年3月15日
最期 1945年8月13日被雷沈没
除籍 1945年9月15日
要目(竣工時)
基準排水量 740トン
全長 69.50m
最大幅 8.60m
吃水 3.05m
機関 艦本式甲25型1段減速式オールギヤード蒸気タービン1基
ボイラー 艦本式ホ号空気予熱器付重油専焼水管缶2基
推進 1軸
出力 2,500shp
速力 17.5ノット
燃料 重油240トン
航続距離 14ノットで4,500カイリ
乗員 定員141名[注釈 1]
兵装 45口径12cm高角砲 単装2基
25mm機銃 3連装2基
三式爆雷投射機12基
爆雷120個
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探1基
ソナー 九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
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艦歴

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計画-竣工-練成

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マル戦計画の海防艦丁、第2701号艦型の3番艦、仮称艦名第2703号艦として計画。1943年10月5日、横須賀海軍工廠仮称艦名第2701号艦同第2702号艦同第2706号艦同第2707号艦同第2708号艦と同時に起工。12月22日、第六号海防艦と命名されて第二号型海防艦の3番艦に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。

1944年1月15日、第12号海防艦と同日に進水し、本籍を横須賀鎮守府に定められる。2月2日、艤装員事務所が横須賀海軍工廠内で事務を開始[注釈 3]。3月15日竣工し、役務を横須賀鎮守府警備海防艦に定められ、呉防備戦隊に編入。基礎実力練成教育に従事。

1944年4月-5月 第二海上護衛隊

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1944年4月5日、海上護衛総司令部第二海上護衛隊に編入[注釈 4]。軍隊区分乙直接護衛部隊に配置。本艦は東松六号船団の護衛とされたが、同船団の出港までに館山へ回航できず、同船団に追及することとなった。17日、三宅とともに船団と合同。20日、硫黄島南方で第20号掃海艇と協同で爆雷戦を実施。21日、第10号駆潜艇と協同で爆雷戦を実施。23日、サイパンに到着し、乙直接護衛部隊から除かれた。26日、軍隊区分乙直接護衛部隊に配置され、東松六号復航船団を護衛してサイパン発。5月4日、東京着。

5月14日、東松八号船団を護衛して館山発。19日、サイパンに入港。26日、3隻[注釈 5]を護衛してトラックへ向けグアム発。30日、トラック着。以後、6月10日までの行動は不明。

1944年6月-10月 第一海上護衛隊

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1944年6月11日、船団(2隻)[注釈 6]第16号海防艦らと護衛してパラオへ向けサイパン発。12日から13日にかけてアメリカ艦上機の空襲を受け、護衛の第1号輸送艦と特設駆潜艇第十一昭南丸が被爆し航行不能となり、両艦艇とも被護衛の輸送船に曳航されてパラオに入港。本艦は18日、パラオ着。同日、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入。さらに同日、引き続き同じ船団(2隻)を護衛してセブへ向けパラオ発。22日、セブ着。22日から27日まで、セブで機関整備を行う。28日、タパ09船団を出迎えるためセブを出港し、同日セブに帰着。30日、セパ01船団(パラオ行き、海軍徴傭船多摩丸)/セダ01船団(ダバオ行き、2隻)を護衛してセブ発。

7月1日、船団はパラオ行きとダバオ行きの二手に分かれ、本艦はセパ01船団を護衛してパラオへ向かう。4日、多摩丸が被雷沈没。残された護衛艦艇はそのままパラオへ向かい、5日パラオ着。以後19日までパラオからヤップへの物資輸送、在ヤップの非軍人をパラオへ送還など、パラオ-ヤップ間を3度往復する。パラオ-ヤップ間の輸送に従事中の18日、第二海上護衛隊が解隊され第一海上護衛隊に編入。19日、パラオに帰着。20日、ダバオへ回航のため第16号海防艦とともにパラオ発。22日、ダバオ着。25日、Z258船団(6隻)を護衛してサンボアンガへ向けダバオ発。27日、サンボアンガ着。28日、C294船団(4隻)を護衛してサンボアンガ発。31日、セブ着。同日、第16号海防艦とともにセブを出港し、8月1日マニラ着。

8月2日、シマ02船団を救援するため第16号海防艦とともにパラワン島バクダナン湾へ向けマニラを出撃。3日、シマ02船団と合同。4日、シマ02船団を護衛してバクダナン湾発。5日、マニラに帰着。8日から9日にかけて、マニラ湾口で対潜掃蕩に従事。9日、マタ26船団(24隻)を護衛して基隆へ向けマニラ発。17日、基隆着。20日、タモ23船団(14隻)を護衛して門司へ向け基隆発。26日、同船団から分離して門司へ回航し、次いで佐世保へ回航。27日から9月5日まで、佐世保海軍工廠で修理と整備を行う。

9月6日、門司へ回航しミ19船団の編成を待つ。9日、ミ19船団(19隻)を護衛して門司発。12日珍島、16日基隆を経由して18日に中継地の高雄に入港。25日、タマ27船団(11隻)を護衛して高雄発。途中サブタン海峡アパリ、ラボック湾、サンフェルナンドと退避を繰り返し、10月3日までサンフェルナンドで待機。

10月3日、船団はオヨン湾マジンロック[注釈 7]へ移動。4日、ミ19船団の元加入船大敏丸を護衛するためマジンロックを出港。5日に同船と合同し、道中でタマ29船団とも合同して、8日にサンフェルナンドへ入港した。10日頃[注釈 8]、船団はサンフェルナンドを出港。マジンロックを経由し、11日マニラ着。17日、マユ13船団を護衛して楡林へ向けマニラ発。21日、楡林着。24日、ユタ13船団を護衛して高雄へ向け楡林発。29日、高雄着。

1944年11月-1945年2月 横須賀防備戦隊(父島方面護衛)

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1944年11月1日、役務を横須賀鎮守府警備海防艦に定められ、横須賀防備戦隊に編入。同日、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入。4日、対潜掃蕩のため高雄を出撃。6日、御蔵が護衛するタモ28船団(8隻)に合同して内地へ向かう[注釈 9]。12日、福岡湾で船団から分離し横須賀へ回航。13日、第一海上護衛隊作戦指揮を解かれ、横須賀防備戦隊に復帰。軍隊区分海上護衛総部隊横須賀鎮守府海上護衛部隊甲直接護衛部隊に配置[注釈 10]。15日、これまでの潜水艦4隻撃沈の功により、海上護衛司令長官から個艦感状を授与され、上聞に達する[注釈 11]。以後本艦の乗員は、同じく潜水艦4隻撃沈の功を挙げた第4号海防艦[注釈 12]の乗員とともに、他艦艇の教練の際に指導を受け持つことが多くなる。16日から横須賀海軍工廠で訓令による工事を行う[注釈 13]

横須賀海軍工廠で修理中の12月5日、第51号駆潜艇第52号駆潜艇が船団護衛中に八丈島沖で衝突し両艇とも航行不能となったため、本艦は救難のため工事を取りやめて6日に出撃したが、横須賀出港後1時間足らずで出撃中止となり横浜へ回航。12日、3209船団(4隻)を護衛して父島へ向け館山発。16日、父島着。17日、復航4217船団(3隻)を護衛して横浜へ向け父島発。21日、横須賀に帰着。24日、3223船団を護衛して父島へ向け館山発。27日、父島着。28日、復航4228船団を護衛して横浜へ向け父島発。1945年1月1日、横須賀に帰着。

1945年1月8日、3107船団(父島向け2隻、母島向け1隻)を護衛して館山発。11日、父島着。12日、復航4112船団(3隻)を護衛して父島発。17日館山に帰着。19日から27日まで、横須賀海軍工廠で修理を行う。31日、対潜掃蕩のため父島へ向け館山を出撃。

2月5日、4205船団を護衛して父島発。10日、横須賀に帰着。以後、2月28日までの行動は不明。

1945年3月-4月 横須賀防備戦隊(八丈島方面護衛)

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1945年3月1日現在、軍隊区分直率部隊に配置。3日、3303船団(2隻)を護衛して八丈島へ向け横須賀発。4日、八丈島着。9日、復航4309船団(2隻)を護衛して八丈島を出港し、同日館山に帰着。19日、第9号輸送艦の前路掃蕩艦として八丈島へ向け館山を出港。同日八丈島に到着し、神湊沖で哨戒。21日、館山へ向け八丈島発。同日、三宅島海岸で第九〇三海軍航空隊機が不時着したため、本艦は搭乗員を収容。22日、館山に帰着。31日、3329船団(海光丸)を護衛して八丈島へ向け館山を出港し、同日八丈島着。

4月1日、復航4401丙船団(海光丸)を護衛して八丈島発。2日、横須賀に帰着。15日、軍隊区分直接護衛部隊に配置。27日、3425船団(竜神丸)を護衛して八丈島へ向け館山を出港し、同日八丈島着。29日、復航4429船団(竜神丸)を護衛して八丈島を出港し、同日横須賀に帰着。

1945年5月以降 大湊警備府作戦指揮下-沈没

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1945年5月6日、大湊警備府作戦指揮下に編入。軍隊区分大警直卒部隊に配置。9日横須賀を出港し、10日大湊着。14日、船団を護衛して小樽へ向け大湊発。15日、小樽着。以後津軽海峡北海道千島列島方面の護衛に従事。

8月11日、石油を積載し第16号海防艦とともに室蘭へ向け釧路発。13日、日高北緯42度16分 東経142度12分 / 北緯42.267度 東経142.200度 / 42.267; 142.200の地点でアメリカ潜水艦アトゥル[注釈 14]の攻撃を受け、被雷。第6号海防艦は大爆発を起こし、無数の残骸を撒き散らして沈没した。海防艦長の安藤英郎少佐以下乗員196名が戦死または行方不明となった。9月15日除籍。

海防艦長

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艤装員長
  1. (兼)原利久 大尉:1944年1月20日 - 1944年1月30日(本職:第二号海防艦艤装員長)
  2. 西部貞三 大尉:1944年1月30日 - 1944年3月15日
海防艦長
  1. 西部貞三 大尉/少佐:1944年3月15日 - 1945年4月10日
  2. 安藤英郎 大尉/少佐:1945年4月10日 - 1945年8月13日 戦死、同日付任海軍中佐

脚注

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注釈

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  1. ^ この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ 本来の艦名表記は第六號海防艦。
  3. ^ 本艦の艤装員事務所の撤去日は明らかでない。
  4. ^ 第二海上護衛隊への編入日は昭和19年4月5日付 軍令部機密第051437番電『帝国海軍戦時編成ノ改定』による。海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 706では4月10日としているが、本艦の行動履歴と合致しない。
  5. ^ 特設運送船射水丸、海軍徴傭船廣順丸、門司丸。
  6. ^ 船団名不明。海軍徴傭船廣順丸、同明島丸。海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 736では「廣順丸船団」としている。
  7. ^ Masinloc。カナ表記はGoogle マップによる。
  8. ^ 第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年10月1日-31日)では出港時刻が不明。
  9. ^ 高雄出港日は第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年11月1日-30日)による。横須賀防備戦隊戦時日誌では11月3日としている。
  10. ^ 以後の横須賀防備戦隊編入中は、軍隊区分名から「海上護衛総部隊横須賀鎮守府海上護衛部隊」の記述を省き、「何々部隊」とだけ記述する。
  11. ^ 本艦が撃沈したとする該当艦はない。
  12. ^ 第4号海防艦が撃沈した潜水艦はスキャンプのみである。
  13. ^ 月刊シーパワー 1985年9月号p. 75では、本艦が1944年11月14日にアメリカ潜水艦ハリバットを損傷させた可能性を記しているが、横須賀防備戦隊戦時日誌では11月3日、第一海上護衛隊戦時日誌では11月6日に内地へ向け航行中であり、11月3日からマニラ行きタマ31C船団を護衛した事実や、あるいは11月14日にルソン海峡で爆雷戦をした事実は無い。
  14. ^ 世界の艦船『日本海軍護衛艦艇史』p. 40では、第6号海防艦を撃沈した潜水艦をAtyleとしているが、そのような名のアメリカ潜水艦は存在しない。

脚注

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参考文献

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  • 海軍省第二復員省
    • 昭和18年12月22日付 達第319号、内令第2776号、内令第2778号、内令第2780号。
    • 昭和19年1月15日付 内令第123号、内令第127号、内令第128号、内令第129号。
    • 昭和19年3月15日付 内令第442号。
    • 昭和19年11月1日付 内令第1226号。
    • 昭和19年1月25日付 海軍辞令公報(部内限)第1301号。
    • 昭和19年1月31日付 海軍辞令公報(部内限)第1309号。
    • 昭和19年3月16日付 海軍辞令公報(部内限)第1378号。
    • 昭和20年4月24日付 秘海軍辞令公報 甲 第1781号。
    • 昭和21年3月11日付 第二復員省辞令公報 甲 第80号。
    • 昭和19年2月9日付 海軍公報(部内限)第4612号。
    • 呉防備戦隊戦時日誌。
    • 呉鎮守府戦時日誌。
    • 第七護衛船団司令部戦時日誌。
    • 第一海上護衛隊戦時日誌。
    • 海上護衛総司令部戦時日誌
    • 横須賀防備戦隊戦時日誌。
    • 大湊警備府戦時日誌。
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』、原書房、1982年。
  • 月刊シーパワー No. 30 1985年9月号、株式会社シーパワー、1985年。
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、朝雲新聞社、1971年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、朝雲新聞社、1974年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、朝雲新聞社、1975年。
  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。